悠闇恋歌 肆ノ唄
「どうして…雪花…太夫が此処に?」
僅かにあせりを含んだような声に、かぶさるように、雪花の喉がくすくすと笑いをたてる。
「暇だったから…散歩」
夜風は気持ちいいから、とおっとりと言いながら雪花は時折笑い声を零す。
甘い声で。
「高埜様は…どうしたの?」
しゃらん、と簪が鳴った。
雪花が首をかしげたのだろう、さらりとしたその音は一瞬鳴って、止み、もう一度鳴った。
「朱李も一緒に…何処に行くの?」
その問いかけはまるで幼児が言うようで、朱李は自然と、背中に汗をかいた。
おかしい。
雪花は、知っていた。
この身請けを。
「何処に行くの…?」
カラン、と夜陰に染み入るように、高下駄が鳴った。
やわらかな香の香りが近づいてくる。
背を伝いおちていく汗を感じながら、朱李は頭の隅でぼんやりと思い出していた。
『これは誠を立てた方から…もらった香なんだ』
出逢ったばかりの頃、そう言って焚いていた香と同じ香り。
押し付けがましくない、知らず漂うような、やさしい香り。
まるで、そのひとのような。
「ねえ…?」
「せ…雪花、これは…」
「…ぁッ」
ぐっと、手を握る手のひらの力が強まって、朱李は思わず声をあげた。
その声に、かぶさるように、はかない銀の音が、した。
「さようなら、将晴…」
カラン、と勢いづいた高下駄の音。
しゃら、とどこか耳に響く甲高い音。
自然と、朱李は一歩前に踏み出していた。
将晴の手を振り切って。
しかし、踏み出した一歩は小石にわずかにのり、体勢を前に崩した朱李は、突如左胸から右脇腹にかけての鋭い痛みに、体を屈めた。
「―――っ!」
「朱李!」
悲鳴だったか、怒声だったか、飲み込まれた声は二人分。
そして、名を呼ぶ声は一人分。
肌を伝っていく生暖かさと、響く痛みに意識を急速に落としていきながら、朱李はその声を求めるように唇を開いたが、なにも紡ぐことができないまま、細い体は崩れた。
シンプルな家具の配置が上品な部屋に男を通すと、将晴は一人がけのソファに腰をおろし、客人にも勧めた。
ぎしり、とソファに腰掛けた客人をまっすぐに見据えながら、将晴は茶も出さず、指を組んだ。それを見据えながら、客は口を開く。
「約束が…違ったはずだ」
「俺は約束は守った。榛姫の目を治した」
緊張の糸が、ぴんと張る。
「目は…礼を言う。…傷は?」
「傷は、治らなかった。切ったじゃなくて、裂けた傷だからな…綺麗な肌だったのに、残念だ」
将晴のその言葉に、客は膝の上で手を強く握った。
「どっちにしろ、目は治った。約束は果たした」
「確かに果たされたさ。でも榛…朱李は俺が…っ」
「俺が?」
「俺、が…」
苦く俯いた客人を見ながら、将晴は苦笑するように、深黒の双眸を笑みにたわめた。
瞼が痛いと、朱李はぼんやりと思った。
神経が痛むのでなく、なにか瞼がまぶしくて、感覚的に痛い。
見えぬはずの目に、何かがまぶしい。
「…起きたのか、朱李」
不意に隣から声がかかって朱李は、目を開けようとした。
しかし、瞼は開かず、僅かな痛みが走った。
「痛…っ」
「無理矢理開けないでも、今外すから」
声は、高埜。
屋敷なのだろうかと考えているうちに、男の手が伸びて背を起こさせた。
「すぐは眩しいだろうから…ゆっくり開けるんだぞ」
「開ける…?」
何を、と問いかけるより先に、目の周りをぐるぐるに巻いていた包帯が、しゅるしゅるとほどけていく感覚。僅かな締め付けがゆったりとしたものになり、やがて、パラリと布が落ちた。
「まぶ、し…っ」
光を失ったのは、五歳の頃だった。事故で、眼球が傷ついたのが原因だった。
それ以来光を感じなかった瞼に、思わぬほど強い光。
思わず眉を顰めた朱李に、将晴は苦笑を浮かべると、レースのカーテンを引いて部屋に影を落とした。
「ゆっくり、ゆっくりだ。そっと、瞼を開けて…」
「……」
囁くような声に促されるまま、瞼をゆっくり開ける。
と、目の前に、男の顔があった。
闇ではなく、闇に近い髪の色をした、秀麗な顔立ちの男がいた。
「…見えてるようだな」
「ッあ…」
思わず手のひらを目の前にすると、白い指が、視界を遮った。
「なん、で…」
思わず呟き、まだ慣れぬ光に瞼を薄く閉じかけながら問うと、高埜は悪いがと口を開いた。
「見えたほうが、今から君が貰われていくところの主人は喜ぶだろうからね」
「貰われていくところ…?」
未だ光に目が慣れない。
それと同じように、聴覚器官だけ夢に浸っているような曖昧な気分になりながら朱李が問い返すと、男は頷いた。
「榛姫、君は、これから一週間後、俺の知り合いにプレゼントとして貰われていくんだよ」
十数年ぶりに光を宿した瞳が、今度は闇ですらない暗黒に覆われていくのを感じながら、朱李は絹の上掛けをぎゅっと握り締めた。
一週間は思いのほか早く訪れ、煌びやかな、着物に着替えさせられた朱李は、目の前の男を前にして、静かに座していた。
一週間の間、双眸は光に慣れ、今では外に出ても多少は平気になった。
記憶の中にあった、幼い自分の体には無かった傷にも、ようやく慣れた。
裂かれた傷は、薄く膨らみのある左胸から、薄い右脇腹へと斜めに降りていた。触れると僅かに凹凸があった。傷がようやくふさがったので傷を合わせていた糸は抜かれたが、白い肌に明らかに色の違う斜め傷は目立っていた。
「朱李、そろそろ時間だ」
「は…ああ」
言われて立ち上がると、手を取られ、そのまま玄関へと歩まされる。
待ち受けていたのは、豪奢な俥だった。
「出せ」
乗り込み、ばたんと扉が閉まると、高埜は持っていた杖の先で天井を二度、どんどんと叩いた。それを合図に俥はがたがたと走り始めた。
金の細工が施された瀟洒な窓枠の上には、繊細なつくりのレースがかかっており、それ越しに外を見ながら、朱李は髪で揺れる簪に目をやった。
きらきらと光を弾きながら揺れる、小さな宝石。
身に着けているもので、唯一自分のもの。
彼から貰った、大切な、自分の簪。
「そういえば…知ってたか、朱李」
「なにをですか」
朱李の問い返しに、高埜は足を組んで、肘掛に肘をついた。
「今日は誕生日なんだ」
「めでたいですね」
「全然めでたそうじゃないな。俺じゃない」
「?」
感慨もなく言った朱李に笑いながら将晴は首を振ると、ふと口をたわめた。
「真萩氏のさ」
「―――…」
真萩克樹。
簪をくれた彼。
最後まで、問いに応を返してくれなかった男。
「めでたいな」
「……」
頷くも、言葉を発しないまま、朱李は、視界のはしで簪を捉えると、瞼を閉じた。
ついた場所は、大きな和風の屋敷だった。
俥が停まると先に将晴が外に出て、手を差し出してきた。
「どうぞ、榛姫」
「………」
無視してしまおうかと考えるより先に手が伸びて、ぐいと引かれる。もんどりうって転びそうになりながら降りると、高埜はポケットに手をいれ、中から何故かアイマスクを出した。
「これを」
「…?」
なぜ、と問いかけようとするより早く、高埜の手が優雅な仕草で朱李の目に闇をかけた。
「闇は慣れているだろう。足元に気をつけて」
僅かな皮肉を含むような声に無言で返しながら朱李は一歩踏み出し、引く手に導かれながら屋内に足を踏み入れた。
「高埜か? どうしたんだ、突然…」
ふと、男性の声がした。声の質、深さからして、初老。止まった歩みに連動して朱李も足を止めると、高埜はああ、と声をあげた。
「御子息へのプレゼントですよ。彼はどちらに?」
「ああ、部屋にいるはずだ」
高埜の声に応じる声を静かに耳に通していた朱李だが、ふと気付いた。どこかで聞いたことのある声。
最近ではない。
もう以前だ。
「ありがとうございます。それでは」
脳裏を、何処か昔の記憶が過ぎると同時に、それを横から浚うような強さで、高埜が手を引いた。
「部屋か…修練でもしてるのか?」
呟きながら朱李の手を引き、家の奥へ奥へと足を進めていく。
床の板がきしきしとなる軋みを聞きながら、歩を進めていく。
長年付き合った闇への恐怖は無く、ス、ス、と摺り足をする様な朱李の足取りにあわせながら高埜は暫く足を進めていたが、不意に足を止めた。
「俺だ。入るぞ」
応の声も待たずに高埜は言うと、スパンと襖を開いた。
一瞬大きく響いた音に朱李は身を竦ませたが、次には静けさが落ちた。
「…なんだ、いないのか?」
「いない?」
アイマスクをしているため、朱李に部屋の様子はおろか、高埜の言う男の所在は知れない。
高埜邸から出る前に紅を引いた唇から問いを零すと、仕方ない、と高埜は息を吐いき、朱李の手を引いたまま室内に足を踏み入れた。
「ここいらでいいかな…」
部屋の途中、掴んでいた白い手を離すと、高埜は勝手知ったるなんとやら、座布団を箪笥から取り出すと、きめ細かな畳の上に敷いた。そして、手を離したその位置で立ち尽くしている朱李の手を再度取ると、座布団に座らせた。
「俺は今から用事があるんだ。朱李、此処にいて彼を待っていてくれ。すぐに戻ってくるはずだ」
座った際に乱れた裾を直してやりながら高埜は言うと、見知らぬ男の家においていかれることになり、明らかに顔色を変えている朱李に笑んだ。
「ば…馬鹿言わないで下さい、俺も帰ります」
こんな見知らぬ場所に一人で置いていかれてはかなわない。
思わず腰を浮かしかけた朱李だったが、とんと肩を押されて座布団にすわりこんだ。
「その目で、真実を見ろ」
「え…」
アイマスクが取れ、闇が晴れた。
「朱李…」
高埜が囁いたのと、朱李が問いの声を零したの、そして、自室に座した榛の姫を眼にして針を落とした巧真が呟いた声が、静かに重なった。
きしりと畳を一つ軋ませた将晴を、朱李はぼんやりと見送った。
目の前に来て、歩みを止めた高埜を、巧真は信じられないものを見るような目で見つめた。
「誕生日おめでとう、真萩克樹…いや、檜垣巧真」
一つ笑んで、そのまま部屋を出て行った男を追わず、巧真はごくりと唾を飲んだ。
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