悠闇恋歌 終ノ唄
高埜が出て行った後の部屋は恐ろしいくらいの沈黙が落ちた。
朱李は榛色の双眸を見開いたまま目前の男を見つめ、巧真は、落としてしまった針を拾えないまま、目前の元娼妓を凝視していた。
「…巧真?」
最初に沈黙を破ったのは、紅の引かれた唇だった。
「…あ…あ、ああ」
応を返したのは、突如襲った緊張からか、乾燥した口角。
「真萩克樹…様?」
「―――…ああ」
最初の問いに対し、続いた問いへの応は、少し間があった。
男を見ながら、朱李はなにか、じわじわと染み入るようななにかが胸を浸食していくのを感じていた。
「どうして…嘘ついたの」
じわじわ。
痛いような、苦しいような、なにかが広がる。
「嘘を吐いていたわけじゃ…」
「それならどうして!?」
真萩克樹と名乗り、金を出して抱いて。
巧真と名乗り、肌を清めて身の回りの世話をして。
無駄としか言えないこの事実を、思い返せば羞恥と謀られたという怒りしか浮かばないこの行為を、嘘と、騙していたと言わずになんと言うのだろう。
激昂して朱李が立ち上がると、巧真は一瞬茶色の双眸を痛そうに眇めた。
「騙していたわけじゃない…」
雫が零れだす前に、悲鳴のようなしゃくり声を上げて、朱李は言葉を切ると、今度こそ、悲鳴を吐いた。
「それならどうして抱いたりなんかしたの…っ」
お金を払って壊れ物に触るみたいに丁寧にこの肌を抱いて。
吐き出したものを自分で掻き出して、性の捌け口でしかないこの体を綺麗に清めて。
「どうして…っ」
溢れた涙が、白粉をはたかずともすべらかに白い頬をすっと伝って、重力に従順に落ちていく。
ぱたた、と畳や着物の袖に散った雫はすぐに吸い込まれて、消えた。
「からかってた? …見えないから、誰が抱こうが世話をしようが、わからないと思ってた?」
闇に溢れた視界には、確かになにも映りはしなかった。
麗らかな春の桜も、夏の日差しに映える向日葵も、萌えるような秋の紅葉も、眩しいほどに白い雪も、なにも映りはしなかった。
だけど、感じていた。
手のぬくもりや、滲むような優しさ。
一緒だと、傾城の誠を立てるほどのひとによく似た客だと思っていた。
だから、指名が嬉しかった。
例え彼じゃないと思っていても、似ていたから、抱かれて嬉しかった。感じていた。
この目が見えない分、彼に抱かれている錯覚をこの胸に抱きながら、光の無い世界で夢見ていたのに。
「…感じてたのに」
見なければ良かった。
いっそ、死ぬまで光など見ずにいればよかった。
そうしたら、夢を抱いたまま、現実を見ないでいられた。
感じなければ良かった。
誰に抱かれてもただ濡れるだけの道具であればよかった。
そうしたら、こんなに疼くような想いを抱かずに済んだ。
想わずにいれば、よかった―――…
「感じて…たのに…」
指、
腕、
胸、
首、
足、
腿、
鼻、
頬、
瞼、
花、
くちびる。
触れられて感じない場所なんてなかった。
何処に触られても何処に接吻けられても感じてしかたなかった。
よく似たその手が、呼吸が、触れると思ったら疼いて仕方なかったのに。
涙で目の前が見えない。
溢れた涙を拭いもせず朱李は大きくしゃくりあげた。
胸が痛かった。
喉が痛かった。
触れられてきた全てが痛くて、その痛みだけで死ねそうだと、朱李は何処か冷えた胸の奥で想っていた。
俯きも、視線を逸らしもせずに、いっそ花のように凛と背を伸ばして見上げてくる朱李を、巧真はじっと見つめていたが、不意に畳にあがると、膝をついた。
「…悪かった」
「―――…っ」
その言葉に、朱李は更に大きく目を見開いて唇を噛んだ。
謝ったということは、騙していたと、謀っていたと認めたということ。
しかし、巧真は頭を下げたあと、再度口を開いた。
「でも、信じてくれ。俺は、嘘をついたつもりは無かった」
「嘘をついたつもりが無い? なら…ならどうして俺は此処にいるの? どうして巧真こんな大きな家の御曹司なの!?」
玻璃と瑠璃の簪を贈った真萩克樹。
簪だけでも高価なものなのに、玻璃と瑠璃の宝玉までつけば、相当な高値だ。
それを、たかだか娼ごときに贈れるほどの、大きな家の男。
それが、どうして自分の傍に仕えて、娼の後始末やら世話やらをする必要があったのか。
激昂した朱李が、責める口調で問う。
青年は、頭をあげ、視線を合わせて口を開いた。
「本当のことを言ったら、お前は信じるか?」
「なにが本当のことって言える? 巧真の言葉なんて、もう…」
もう、
信じたく、ない。
また嘘を吐かれたら、
悲しすぎて死んでしまう気がするから。
嫌々をするように左右に首を振って涙を散らした朱李に、巧真は何処か悲痛に顔をゆがめた。
「信じなくてもいい。でも、これだけは聞いてくれ」
板間に落ちたままだった針を、拳が取った。
「お前の傍にいたかっただけなんだ」
そして、おもむろに自らの二の腕の布を張り先で引き裂いた。
「たく…っ」
思わず叫んだ朱李の玻璃の双眸に、赤と、黒と、そして玻璃。
朱李の蝶は、左腿の付け根のすぐ下。
しかし、斜めに傷の走った、巧真の右二の腕にも、同じものがあった。
それは全く同じ、というより、同じ蝶がそこにとまっているようで、思わず朱李は、恥ずかしげも無く自らの着物を捲り上げて、白い腿を晒した。
透けるように白い腿に、鮮やかな玻璃と銀を映えさせながら、揚羽はいた。
「なん…で…」
娼の蝶は、一人一人違う。同じ蝶を彫れるのは、ただ一人。
「…お前を初めて見たのは、俺が彫り師として楼に行った時だった。覚えてないか、蝶を彫った日」
覚えていないか、と問われて朱李は、まだ闇に視界が覆われていた頃を思い出した。
楼に買われたばかりの朱李は、床に上がる前に、娼となった証にと、彫り師に、左の腿を差し出した。
薄い皮膚を針が刺したその日はしんと冷えていて、雪が降っていると教えられたのを覚えている。
ちくりと刺すというよりは、疼くような痛みが、冷えた冬の空気に反発するように熱を持っていて、そこだけが、じわりと熱かった。
あの日、肌に消えぬ証を刻み込んだ男は、一言も話さなかった。
ただただ皮膚に触れては機械的に針で肌を刺し、愛撫するような優しさで印を刻み付けた。
まるで、一晩を過ごすたびに、甘い錯角を肌に残していった真萩のように。
「お前、言っただろ、俺に」
「『蝶は一対なんですよ』」
静かな夜陰に響いた声音を思い出すように、巧真は呟いた。
「…だから、俺がなりたいと思った。お前の、対に」
まだ未熟ですらあった自らの腕の総てをかけて、白い肌に刻んだ蝶。
そして、その対を、自らの腕に。
利き腕でないため、緊張と痛みに震える左手を何度も諫めながら、何度も肌を削った。
そして、自らも下男として楼に入り、彫り師の腕を磨きながら、別の男に成り済まして、一夜を買った。たった一夜、数時間だけでも、対になりたくて。
「だから、お前の傍にいた」
真摯な言葉が、一週間の間に降り積もった白い雪に光を投げる、昼の柔らかな日差しに溶ける。
「好きなんだ」
まっすぐな言葉が、まっすぐすぎるほどあからさまな想いが痛いほど胸に響いて、滲む。
「―――…っ」
玻璃の双眸から零れた雫を拭いもせず、手のひらに顔を突っ伏した朱李は、戸惑ったように触れてくる大きな手に幾つも幾つも雫を落としながら、息を吐いた。
この目が見えずにいた事に対しての、初めての安堵に。
そして、闇に閉ざされて叶うことなどないと信じていた恋に。
「お…俺も…っ」
しゃくりあげて仕方ない呼吸の合間からなんとかそれでも朱李が声を絞ると、涙を些か戸惑いを含んだ手つきで拭っていた手が、一瞬びくりと震えた。
「ほん…とうか?」
それを手に取り、朱李は自らの頬に寄せた。
たった一人の客だけ、たった一人の男だけが知っていた合図。
手のひらを添わせた白い頬に微笑みを佩いて、朱李は、一つ、大きく頷いた。
改めて向き合うと恥ずかしいのだと思い知りながら、朱李は、目前で膝をついたまま拳を膝に載せている男を見つめていた。
着替えてきた着物は破れていず、その下に隠れた傷は包帯が巻いてあった。
「…えっと…」
どうしようか、とばかりに巧真は金の頭を掻いた。
問われても朱李もどうしようもない。
今まで金で買われて、いっそ仕事と割り切りながら足を開いていたのだ。今更恋愛感情を挟んで抱き合うことなど、恥ずかしくて出来そうも無かった。
しかし、いつまでもこうして向き合っていても、埒が明かない。
紅も引いていない唇をうっすらと開けると、朱李は、僅かに上ずった声を零した。
「巧真、俺を」
「言うな!」
鋭く巧真は怒鳴ると、膝の上で握り締めていた拳を開いて、再度握った。
「…言うな。俺が、ちゃんと言うから」
「……」
もう一度、手のひらを開いて、強く握ると、巧真は、は、と短く息を吐いて顔をあげた。
精悍な顔が、正面を切って朱李を見る。
紫の瞳に見つめられながら、朱李はこくりと小さく喉を鳴らして唾を飲んだ。
「抱かせてくれ。…抱きたい」
一言一言を、まるでとても大切な言葉のように区切って言うと、巧真はぐっと強く手を握った。
「…誰を?」
唇が震える。
膝の上に置いた手も。
体のいたるところが、何かじわじわと這い上がってくるようなものに侵食されて震えているのを感じながら朱李が問うと、一瞬巧真は面食らったようだったが、すぐに口許を引き締めた。
「榛姫じゃない、ただの朱李を抱きたい」
疼きのような震えが全身に走り、甘い響きになって胸を締める。
頷いた朱李を、蝶の刺青が入った腕が抱きしめた。
「んっ…ァ…はぁ…」
昼のやわらかな光に、白い肌がしっとりと馴染む。
手のひらにやわらかなふくらみを感じながら、巧真は目を細めた。
指先に、仄かな粒。それを弾き、口に含むと、目の前の白く細い体が素直に跳ねた。
「も…そこばっかり…っ」
「気持ちよくないか?」
「………っ」
たわわな、と表現するほどの質量を持つ胸ではないが、やわらかな感触がここちよく、触れるたびに素直に鼓動を返してくる薄さが愛らしい。
わざと焦らすように問いをなげると、涙を目尻に浮かばせながら声を詰まらせる様子に、一度傷跡をそっと撫ぜてやりながら、巧真は少し笑った。
「嘘。…俺も、そろそろだ」
唇を噛んで顔を一気に赤くした朱李に苦笑しながら、伸ばした舌でまっさらな腹を撫でた。
「ん、ん…っ」
まっさらな肌。
大金を出して、土産を持って、何度も抱いた肌。
それなのに、初めて抱いた時のように震えている自分がいる。
まるで思春期に入ったばかりの初々しい少年のように、指を震わせながら肌に触れ、どきどきしながら唇で花をなぞる。
「…や、ここ、…ぁ…っ」
くちゅんと濡れた音を立てて花芯をしゃぶり、濡れた花弁をなぞると、しなやかな背がすらりと反り返る。
「ここ?」
「馬鹿…っ」
拗ねたような物言いをする唇とは対照的に、赤く染まった頬は初心そのもので、まるで百合のような清廉さを持つ処女を抱いているような気にすらなる。
濡れた花を弄りながら、細い脚を肩に掲げ上げて晒すと、ちょうど視界に蝶がはいった。
美しい翅をもつ蝶。
不意に花芯から口を離して蝶に舌を這わせると、ひくっと震えた腿が、恥らうように内に向いた。
「ここも感じんのか?」
また怒鳴られるだろうかと巧真が考えながら問うが、しかし、予想に反して朱李はしおらしい様子で顎を引いた。
「ん…」
肌を傷つけた痕は、性感帯になるというのを、巧真は聞いたことがあった。
それは耳飾の穴でもそうで、刺青もまたしかりだった。
そこだけが薄い皮膚は、そこだけが空洞な皮膚は、酷く敏感で、人は自ら体に傷をつけ、そこに新しい性感帯を作るというのを聞いたことがあった。
朱李の白い腿につけられた蝶も、また、同じように性感帯になった場所だ。
指先でなぞるとふるりと腿が揺れ、舌先で舐ると、はしたなくも露を零す花が戦慄き、蜜を滴らせる花芯が震えた。
「…嬉しいな」
自分が、この蝶を彫ったのだ。
自分が、この性感帯をつくったのだ。
そう思うだけでなにかぞくりと肌をあわ立たせるものがあり、薄く笑いながら音を立てて蝶に吸い付いた巧真は、翅の一部にキスマークを残して、唇を離した。
そして、花へ指を伸ばす。
「ふっ…ぅ…んん…」
肩をはだけさせながら、辛うじて腕を通している袖を口許に当てて声を殺そうとする仕草が初々しい。それに愉しみすら覚えながら、奥を探っていた指を引き抜くと、どうして、と問うような視線が、巧真を見上げた。
「たく…巧真、もう…」
熱くなりすぎた肌に、これ以上の愛撫はただもどかしいだけのものに移り変わる。
ねだるように甘い声をあげた朱李に笑むと、巧真は蜜で濡れた指で前を寛げ、すでに憤っているものを押し当てた。
「ぁう…ん…」
白い襦袢で口許を押さえた朱李を見つめながら、ゆっくりと腰を進める。
濡れた肉の感触がやわらかく迎えて、優しく包み込んでくる。
低く呻きながら腰を進めると、肩に乗った細い脚がぴんとつま先まで伸びて、肉が擦れ合うごとに揺れた。
「はっ、ア、あぁ…」
短く息をして、キスをして、息をして、キスをして。
それだけが生き甲斐のように繰り返しながら体を動かす。
濡れた音がする。
交わっている音がする。
これは、現実。
金を払って抱いては、嫌悪と後悔に苛まれる夢を見ているわけではない。
手を伸ばして頬に触れると、どこか恥ずかしげな笑みが返ってくる、現実。
「…朱李…」
玻璃の瞳に、自分が映っている幸せな現実。
甘えるように、何処かまだ戸惑いを残しながらも伸びてくる指に自らの指を絡ませた巧真は、白い手の甲にキスをして笑んだ。
互いに彷徨った闇の中ではなく、鮮やかなほど総てを輝かせ、互いに見つめあえるやわらかな陽の光の中で。
ふと目覚めた朱李は、背にあたる人肌を認めると、うっすらと笑みながら、薄く開いた襖の向こうを見つめた。
襖の薄い紙を透かして、鮮やかな橙が、綺麗に整えられている庭に満ちているのが見えた。
多分、もうすぐに夜の闇がおりる。
でもそれも、きっと今までの闇とは違って、いつか明ける闇。
夕を越えて、夜を越えて、朝が訪れる。
そして、また昼、夕、夜。
幾度も幾度も繰り返し、そして変化していく。
それでもきっと、これだけは変わらない。
隣にいるひとだけは。
「…朱李?」
僅かに身じろいだ朱李に、巧真の寝ぼけ眼な声な声が降る。朱李は微笑みながら、薄く開いた唇に軽く口付けた。
すぐに口付けは返ってくる。
それならと、朱李は唇を開いた。
「巧真」
「ん…?」
声にも、すぐに返事が返る。
それだけの事なのに、朱李は傷跡の下でとくとくと早めに脈打つ鼓動を感じながら、そっと体を寄せた。
すると蝶の刺青が入った腕が回ってきて、丁寧に、けれど力強く朱李を抱き締めた。
「離さないからな」
小さな呟きを聞きながらそっと視線をあげると、既に巧真は眠りに落ちていた。
眠っているのに、離すまいとがっちりとした腕に挟まれたまま、朱李は小さく笑って目を閉じた。
次に開けるのは、明け方頃だろう。
けれど、いくら朝が来てもきっと朱李の前にいるのは同じ男だ。
それは多分この先ずっと続くのだろうと感じながら、朱李は意識をゆっくりと落とした。
あとはただ、深くやわらかな夜の闇が、互いの鼓動を感じながら眠る二人を包むだけだった。
end
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