悠闇恋歌 参ノ唄
「太夫、約束をしよう」
そう言った男を思い出しながら、雪花は鏡に映った己の唇に触れた。
紅を引いていない唇。
朱に染まっていない頬。
十七の、自分。
娼でない自分。
ただ一人の客の前でだけ、現れる素の自分。
「太夫、約束をしよう」
「…太夫との、約束ですか?」
問いかけると、男は小さく笑った。
「雪花との、約束だ」
「なに?」
言葉を崩して、体を乱して。
問いかけると、腕に抱いた男は戯れのように白い胸に接吻けを落として、長い腕を伸ばした。
「これを」
伸ばした腕が取ったのは、脱ぎ散らかしたスーツの中から探り出した小さな箱。
「…?」
この男は、やたらと雪花に贈り物をする。
貢いでいるだけだと笑うものの、既に金額は貢ぐ程度で済まされるものでなく、格の低い娼ならば、三、四人は囲えるほどのものとなっている。
今度はなんだろうと、差し出された箱を受け取りながら雪花があけると、そこには、細い、華奢なつくりの簪が一つ、あった。
「…きれい」
決して派手でもなければ、豪奢なわけでもない。しかし、雪花の双眸と同じ色の瑪瑙が小さな粒になってついた飾りは美しく、清楚だ。
「今度迎えに行く。あと半年…片がついたら、迎えに行く」
「え」
「俺だけのものになって欲しいんだ」
「…本当に?」
「ああ。もしこれが偽りなら… かまわない」
「本当に?」
にこりと、雪花は笑んだ。
愛しい男の口から吐き出された言葉の甘さと、その甘さに隠されてわからなくなってしまうほどの酷さに。
「嘘つかないでね、ついたら から」
「つかないさ」
笑んで交わした約束。
甘さと闇が混ざって、何処までが淵で何処からが底かわからない。
ただわかっていたのは、与えられた接吻けは、本物だったことだけ。
ただ、それだけ。
再度唇に触れた雪花は、くすくすと笑いながら、贈られた簪を見つめた。
鋭い簪の柄は燭台の灯の光を弾き、赤く、青く、紫に瞬く。
「約束は…守るためにあるんだよ…」
ひらりと瞬く炎の向こう、酷く静かに零れ、闇に溶けいった笑みに気付くものは誰もいない。
「朱李、呼び出しだ」
高埜将晴との逢瀬のあと、そのまま巧真により自室へ移動させられた朱李は、心労からか、そのまま眠りに落ちた。
白い褥に榛の髪を散らし、微かな吐息だけを零す音として眠っていた朱李は、聞きなれた声にぴくりと体を震わせて、うっすらと目を開けた。
瞼をあげても闇は変わらなかったが、指先に触れたぬくもりと、耳に響く声に、誰何と問わずとも、誰かが知れる。
「巧真…?」
「俺だよ。呼び出しだ。早く」
声が潜んでいるのは、もう陽が昇ったからなのだろう。他の娼は、眠りに落ちている。
「呼び出し…? 誰、こんな時間に…」
まだ眠い。
瞼を擦りながら起き上がると、強い腕が手首を掴んだ。
「楼主だ。行くぞ」
え、と驚きの声を発する間もなく巧真が手を掴んで引き立たせ、何処からか引き寄せたショールを肩に掛けた。
慣れた仕草で抱き上げられ、たくましい首に腕を回しながら、朱李は緊張と、他のもう一つの要因で高鳴る胸に、僅かに俯いて榛の髪を揺らした。
降ろされた場所は畳に引いた、やわらかな座布団の上。今まで縋るように腕を回していたぬくもりが離れるのに不安を覚えながらも正座をして姿勢を整えると、目の前の空気が、ふと変わった。
楼主は元よりそこにいたらしい。
「巧真、ご苦労だった」
「いえ…御用の際は、鈴を」
呼び出し用の鈴を朱李の手に握らせると、巧真は静かに出ていった。スパンと響く襖の閉じた音にすっと息を吸うと、朱李は膝の上で手を握り締めた。
「熟睡のところをすまないね。唐突だが…明日までに、荷物をまとめておくように」
「なっ…まだ早いです!」
「早くなどないよ。彼が、次に来たときは連れて行くからと言っていたからね」
「そんな…」
幾らなんでも事が早すぎる。
こんなに早くては、準備も何も出来やしない。
気持ちの整理も、出来やしない。
「話はこれだけだ。おやすみ、朱李」
手に触れた、冷たい指先が鈴を取り上げて、リリン、と鳴らす。
幾分も経たずに、襖が開いた。
「朱李を部屋へ」
「はい」
伸びてきた手が手を掴み、引き寄せるように抱き上げる。されるがままに抱き上げられながら、朱李は顔を逸らして楼主に向いた。「でも…その、真萩様とは…っ」
「彼は君のお得意だ…君から話をするといい」
いいね、と言いつける様に言うと、茜はそのまま襖を閉めた。
もうなにに縋っても離れることは確定。
酷い眩暈に襲われながら朱李が、自分を抱き上げている男の袂を握ると、微かなため息が落ちてきた。
諦めろ、と言外に言うような吐息だった。
「榛姫、今日指名入ってたぜ」
荷物をまとめる気にもならず、ぼんやりと昼の日差しにあたりながら、格子窓の出っ張りにもたれかかってうたた寝をしていると、上から義遠の声が降ってきた。
近頃巧真も雪花も傍にいないので、義遠や灯沙が時折様子を伺ってくれる。顔をあげると、風にほつれて頬にかかった髪を、長い指が払った。
「…誰?」
「真萩サマ」
「何時から?」
「十二時」
「…そう…」
今宵で、別れを告げる客。
思い入れはない。
ただ、彼とよく似たあの手に抱かれるのが最後だと思うと、寂しいではあるのだが。
「巧真、今日は非番とってんだってよ。だから俺呼べよ」
「んー…」
「じゃァな」
トストスと軽く畳を蹴る音を響かせながら、義遠は部屋から出て行った。
再度、一人に戻る部屋。
暖かい日差し。
眠りを誘うように麗らかで、包み込むように優しい。
澄んだ冷たい空気の中で、差し込む光が当たる底だけが暖かくて、床に入って眠らないと、と思いながらも格子窓の出っ張りに腕をかけたまま、朱李はゆっくりと瞼を落とした。
そうしてしばらくの後に目覚めた朱李は、義遠に手を引かれて霞の間へ向かった。既に客は来ていた。
「失礼しました」
スパンと軽い襖の音がして戸が閉まると、瑠璃と玻璃の簪をつけた頭を下げる。
「今宵はご指名、有難う存じます。朱李に御座います」
紅を一筋ひいた唇でそう言うと、結った頭に手が触れ、下にするりと滑って、顎下へと回った。
その手に促されるように顔をあげると、大きな手のひらが、武骨な指先が、頬を撫でる。
今宵で、最後。
この手に触れられるのも。
「真萩様、今宵は…お話が」
告げなければならない。
たった一言で済むのだから。
「今宵で、お逢いしていただけるのは最後になります。…身請けが決まりました」
静寂。
彼の声は、当然、響かない。
吐息すら漏れもしない。
「今まで善くしていただき、ありがとうございました」
深々と頭を下げると、ザワ、となにか、衣擦れがした。続いて、ザッという畳にすり足の音。
そして。
「痛…っ」
腕を強い力で掴まれて朱李が高い声をあげると、そのまま引き寄せられた。
抱き寄せられる腕の中、いつも嗅いでいたほのかなコロンが匂わない。
うっすらと鼻先を掠めていくのは。
「たくま…」
彼の、匂い。
重なる唇。
「ん…っ」
一瞬の重なりは、ただ本当に一瞬で、泣きたくなるほど早く口付けは解かれる。
腕は離され、タンと畳を蹴る音とともに、彼はいなくなっていた。
初めての口付けを、一筋の紅しか引いていない唇に残して。
翌日、朱李は茜に一つのことを告げられた。
今夜、高埜将晴が迎えに来ることだった。
着付けの時間。
呼んだ巧真に着付けられながら、朱李は榛の髪を白い横顔にさらさらと零しながら俯いていた。
シュ、シュッと衣擦れの音が響くのと同時に、全身を揺らしながら、朱李は乾いた唇を舐め、軽く噛んだ。
「あ、の…巧真…」
問いたいのは一つ。
彼は、お前なのかと、ただそれだけを問いたい。
「なんだ?」
応じる彼の声はいつも通り過ぎて、いっそ、昨夜のことなど夢にすら思える。
「真萩克樹様…でしょう?」
言ってから率直過ぎたと後悔するも、呆気ないほどするりと零れた言葉は、今更拾って隠せるようなものでもない。
シュッシュッと、変わらぬ衣擦れの音がした。
「…巧真?」
どうして返事をくれないのか。
応か、否か、それだけを求めているのに。
着付けがすんだのか、肩に上掛けがかかり、前に気配が回った。
「たく…巧真、あの…」
「朱李」
低い、声。
高いところから降ってきて、耳に心地よい。
無骨な手が榛の髪を漉いて、慣れた手つきで結い上げる。
すっと、簪が刺さった。
シャン、と耳に微かな小さな宝石の当たる音。
「高埜将晴ならきっと良くしてくれる」
大きな手に掴まれた手が、上へと伸ばされる。
「たく、ま…ッ」
頬に、手が持っていかれる。
笑っているのだろう、皮膚の歪み方が、手のひらにわかる。
この伝え方を知っているのは、ひとりだけ。
ただひとりの、客だけ。
ただひとり、彼だけ。
「幸せにな」
それだけを残して、巧真は部屋を出て行った。
榛の髪に良く映える、瑠璃と玻璃の簪を髪に挿し、玻璃色の双眸から透明な雫を落とした娼を一人残して。
くすくす、と笑いが落ちる。
細い指先に、銀柄の簪を持って、雪花は笑んだ。
思い返すのは、愛しい彼の人との契りの言葉。
『ああ。もしこれが偽りなら… かまわない』
『嘘つかないでね、ついたら から』
くすくす。
『ああ。もしこれが偽りなら…殺してもかまわない』
『嘘つかないでね、ついたら殺すから』
『すぐ迎えに来るよ、雪花』
くすくす。
清廉と無垢で彩られた、白い貌で、雪花は微笑んだ。
「約束は…守らなきゃね…」
しゃらりと、簪が揺れた音が闇に響いて消えた。
「朱李。今日は一段と綺麗だな」
片手に朱李の荷物を持った義遠に手を引かれて、裏朱門に通じる銀霞の間へ訪れた朱李を、将晴は第一声に、そう褒めた。
「…ありがとうございます」
そう多くない荷物を脇に置いたまま朱李がそう呟くと、将晴は苦笑を零した。
「嬉しくなさそうだな、榛姫殿は」
「いいえ…嬉しいです」
言葉を零すたび、ただ吐き出すだけの偽りを唇から落とすたび、耳元で瑠璃と玻璃の簪の細工がしゃらりとはかない音をたてる。
「まあ…いい。そろそろ行こうか、外に俥を待たせてある」
「―――…はい」
僅かに鼓動を早めた己の胸に僅かに息を飲みながら頷くと、ザッと音がして、脇に置いた荷物がなくなった気配。思わず顔をあげた朱李は、戸惑いながらも唇を開いた。
「…高埜様、荷物は自分で…」
「榛姫ともあろう者に、重荷は持たせられないね。このくらい軽い。それより、手を」
「はい…」
差し出した手を、男の手が握る。
彼とは違った体温。
あたたかいのに、男の手と思うのに、違う。
彼の手の暖かさじゃない、指の包み方じゃない、引き寄せ方じゃない。
彼じゃない。
手を引かれながら、朱李は庭へと下りた。
佩いた高下駄の下で、小石がじゃりと音をたてた。
「足元に気をつけて…」
言われずとも気をつけながら一歩一歩進む。
見送りはなかった。
本来の身請けならば、盛大な宴を開き、身請けされる娼は華やかに着飾り、身請けする客はすべての娼に花代を払って大盤振る舞いをするのが常だが、この身請けは正規のものではないため、裏朱門から出て行くのだ。
しかし。
じゃり、と、朱李の足の下で鳴った小石とは違う音が、耳朶に響いた。
「…雪花」
手を掴んだ男の手に、力が入った。
カラン、と高下駄が鳴った。
「今晩和、高埜様…朱李」
歌うような、闇に溶ける可憐な声。
楼で最高格の太夫、雪花がそこにいた。
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