悠闇恋歌 弐ノ唄
「おつかれー…」
用意されていた襦袢に着替えて、抱き抱えられながら部屋に朱李が自室へと戻ると、部屋の奥から声が迎えた。
「…灯沙?」
「ん…」
短い返事を返し、すぐに灯沙の気配は部屋の奥、縁側へと消える。しかし、それを追うように、ギシリと床板が強く軋んだ音がした。
「義遠」
まだ布団も敷かれていない、着損ねた着物や散らかしたままの化粧が散らばったままの部屋の、何処に朱李を降ろそうかと思案していた巧真が、不意に、此処に居るはずのない名を呼んだ。
「あーあ、見つかったか…お疲れ、榛姫」
「見つかったかって…なにしてたんだ?」
「なんにもしてねえよ。灯沙が見世に出ねえから呼びに来ただけだ」
ということは、その流れで朱李の部屋にまで入ってしまったのだろう。娼妓仲間の灯沙の部屋は隣で、縁側は続きになっているのでたまに灯沙は朱李の部屋にいたりもするのだ。
悪びれず言った義遠を蹴って、巧真が声をあげる。
「おい義遠、少しその辺片付けろよ。朱李を降ろせない」
「はいはい」
声は、巧真と同じく楼の使用人の義遠の声だ。時折呼ばれる朱李の通り名を言いながら傍に立つと、不必要に周りに物を置いて怪我をさせないようにと、周りを無造作に片付け始めた。すると縁側へと消えていった灯沙が戻ってきて、あまり役に立っているようには思えないものの、細々と片づけを手伝いだした。
と、
「そういや榛姫さ、身請けの話来てるって?」
しゃがんで着物を畳んでいた義遠が、不意に声をあげた。
するとがさがさと和紙が擦れる音を立てながら着物を長持に直していたらしい灯沙も声をあげた。
「…楼主が言ってた。聞いてない?」
「聞いてない…」
「げ…榛姫、俺たちから聞いたって言うなよ?」
「言わないでね…」
どうやら立ち聞きでもしてきたのか、二人揃って苦々しく声をあげる。
しかし、それも耳に入らないまま朱李は自然と、掴んでいた巧真の袂を握り締めた。
身請けの話など聞いていない。
「朱李?」
「たく…巧真、楼主のもとへ…」
見えない闇が、ぐらぐらと蠢いている。
足元から飲み込もうとざわめきながら、襲ってくる。
光も闇も全てを飲み込む場所へと誘うように、この手を、引いていく。
このこころごと。
座敷に下ろされ、肩から滑りおちたショールを掛けなおしながら姿勢を正した朱李は、御用の際はお呼びを、と慇懃に告げて巧真が出て行ったのを耳で確かめると、目の前にいるらしい楼主である茜充孝(アカネ ミツタカ)に向かって唇を開いた。
「身請け話が来ているというのは本当ですか」
唐突だが、しかし的を得た問いかけに、目前の楼主は、ふ、と煙管から息を吐く。しかし朱李には見えず、ただ仄かな煙管の香りが鼻腔を掠めていくだけだ。
「誰から聞いたんだい?」
「身請けされるのですか?」
問いかけに応えず、手のひらに爪が食い込むほどに拳を握り締めながら朱李が問いを続けると、やれやれ、と楼主は声を零した。
「榛姫ともあろう者が、噂にその様か」
「…それ、は…っ」
噂。
しかし、噂が立つということは、それに準ずるような出来事があったということ。
云うではないか、火の無いところに煙は立たぬと。
「まあ…噂だけというわけでもないのだがね」
ふ、と息が吐き出される音がして、僅かな煙の匂い。あまり嗅がない匂いに自然と眉をしかめながら、朱李は、ぐっと唇を噛んだ。
「み…身請けを仰っている方は何方ですか…?」
もしかしたら、真萩かも知れない。
もしかしたら、名も知らぬ、初回の客かもしれない。
どちらにしろこの身は金と引き換えに貰われていくのだけれど。
答えを待ち、俯いたままの朱李に、茜はそれだが、と、煙管を灰皿の縁にかつんとぶつけた。
「君も名を知っている筈だ」
「私、も…?」
「高埜家嫡子、高埜将晴だ」
「…え?」
告げられた名に、朱李は闇を宿す双眸を大きく見開いた。
知らぬ男ではない。
だが、一度として床をともにした相手でもなかった。
「彼が榛姫を是非に、とね」
「でも…高埜様は雪花太夫を…」
雪花が部屋へ呼ばれるのは、いつも彼の人が訪れた時のみ。それ以外は、雪花は殆どを見世で微笑んで過ごす。本来ならば見世など出ずともよい立場にある雪花だが、見世に出てきてはまだ慣れずにいる新入りに客との会話を教えたり、いらっしゃいませ、今宵は寒いですね、宜しければ中へどうぞ、と客に微笑んだりする。
それもこれも、高埜家子息、将晴の命によるものだ。彼は『流連』をしている。相応の金を渡し、客を取らせないのだ。
更に、雪花が身につけているものは大抵が彼からの贈り物だ。聞くところによると、一日として、雪花が彼から贈られたたものを一つもつけていない日がないほど、彼からの贈り物は多く、また、相当の価値をもつという。
それほど雪花は彼に可愛がられている。
だから、彼は雪花一筋と思っていたのに。
「確かに彼は雪花に流連を続けさせているがね…、だが、彼が私に言ってきたのだよ、榛姫を、と」
「聞き間違いでは…っ」
「違いない。私は聞き返したのだからね。桜姫…雪花をではなくかと。彼は、間違いなく、榛姫をと言っていたよ。私も断りはしたさ。彼は雪花を敵娼にしているし、ほかに手を出すのは御法度、花街での規則に背くからね」
「ではなぜ!?」
「常の二倍の身請けを約束された」
「………ッ」
金の問題ではない。
雪花との睦まじさを、朱李は知っている。
それなのに、どうしてこの身を彼に請けさせることが出来よう?
「お、…お断りします…」
優しい雪花。
綺麗な雪花。
悲しませたくない。
「断るのかね」
「お断りします」
目の見えない娼である自分を、友人だと最初に言ってくれたのも雪花だった。
元はそこそこの良家の子女であった朱李だが、親が政府に楯突くものと偽りを述べられ、死刑にあった。財産はすべてとられ、残ったのは朱李のみ。女衒に売られ、この楼に買われたばかりの頃、既に座敷持ちの格(中の上)にいた雪花なのに、気性の悪いほかの娼に盲と朱李が嘲られた時、間に割って入って、
それが、どうかしたか? あんたの目より、ずっと朱李のほうが綺麗だ。
強い声で、優しい仕草で、制したのも雪花だった。
入楼したばかりで、右も左も分からない時から世話をしてくれたのも雪花だった。
座敷持ち(自分専用の部屋と座敷を持つ位)でありながら、なにかと大変だろうからと、局見世(最下級)の大部屋にまで脚を運び、これはきっと朱李に似合うと、質のいい着物を見立てたりしてくれた。
彼女がいなければ、今自分が部屋持ちでいることなど、ありえなかったはずだ。
しかし、
「しかし君はまだ格子の部屋持ち…。客の身請けを断ることは出来ない」
「な…っ…」
「雪花ほどの太夫になれば、断ることも出来ようが…格子が断ることは許されぬよ」
楼主の言葉に、間違いはない。
雪花は太夫。それも、太夫の中でも最上格の花魁だ。
太夫ほどの位ともなれば、客は会いに行くだけでも一苦労だ。
まず玄関先で『総花』(現在のチップ)を楼にいるすべてに与え、それからやっと座敷にあがらせてもらうが、そこで会話をさせてもらうのは、通い始めて数回目のことだ。初めなど見向きもされず、まったく視界に入らないことすらある。それから数度通って話を出来るようになり、更に数度通い、太夫に気に入られなければ、抱かせてなどもらえない。散々通いつめながら、一度も抱かせてもらえずに財を食い潰してしまう男も居るほどだ。それ故、太夫には、傾城と呼ばれる格(太夫の上、花魁の下)もある。
太夫と客とでは、位は太夫のほうが高いのだ。
だが、格子の中、部屋持ちでは客のほうが格は上。断る事など出来やしない。
「明後日、高埜家御子息はお越しになるそうだ」
「………」
「気持ちをまとめておくように。―――巧真」
呼ばれた名にびくりと肩を竦める、次の一瞬、応の声。
「はい」
からりと引き戸が引かれて、畳に膝を付く音がした。
「朱李を部屋へ」
「はい」
驚かないようにとの心配りか、手に手が添えられ、それからゆっくりと立ち上がらせられる。
しかしぐらりと朱李がよろめくと、強い腕がしっかりと背に回り、まるで強制的に立たせようとでもするように支えた。
「榛姫、娼が想いを持ってははいかんよ」
「…失礼いたします」
投げかけられた言葉に返事は返さず、慇懃にそれだけを告げて楼主の部屋を出ると、同時に、先程よりも強い脱力が体中を襲い、抗いきれないまま、朱李はがくりと膝をついた。
「朱李…っ?」
慌てて抱き起こしてくれる巧真の腕に目を伏せながら、朱李は無言で唇を噛み、堕ちていく意識に体を蝕ませた。
初めまして、朱李。俺の名前は雪花。宜しくな。
肩書きも位も名乗らず、ただそれだけを言った雪花を思い出しながら。
「朱李! 倒れたって聞いたけど…大丈夫?」
布団に横たえられ、二時間ほどして朱李が目覚めると、突然雪花の声が降ってきた。
「…っあ…」
「動かないで、なにか飲みたいのある?」
弾かれたように身を起こしかけた朱李を制して、雪花が立ち上がった、衣擦れの音がした。
「いきなり倒れるなんて…前のお客様、…真萩様…そんなにきつかったの?」
「………」
雪花はまだ身請けの噂を耳にしていないのだろうか。
それだけを考えながら首を振ると、雪花はじゃあ風邪かな、と言いながら戻ってきた。
「白湯だけど、まずはこれ飲みな。寒いだろうから」
手を暖かい雪花の手が掴んで、白湯を入れた茶碗を渡される。
ほんのりとしたぬくもり。
目の前に座っているのだろう、佳の人の手のような。
「あり…がとう」
受け取り、口に運ぶと、熱くも冷たくもない温い湯が、口腔に滑り込んできた。
「それとも、身請けの話のせい…?」
「…っ」
口に含んだ白湯を飲み干そうとした瞬間の言葉。驚き、ごくりと飲んだ水は喉を痛めて気管へと落ちていく。
「げほっ…」
「ごめん、大丈夫?」
伸ばされた手が背に回り、上下に摩ってくる。優しい慈悲の手が。
「ごめん。…でも、聞かないのも、悪いなって…」
悪いのは、悪いと思わないといけないのは朱李の方なのに、雪花はごめんと繰り返しながら、背を撫でる手を退けた。
巧真は部屋にいないのか、雪花の声と衣擦れだけが部屋に響く。
「まさ…高埜様から、お話が来てるんだね?」
「…う、ん」
身請けされる娼は幸せだ。
金で買われていくが、普通の生活に戻れる。
金で脚を開き、濡れた花弁に見知らぬ男のものを迎え入れずに済むようになるのだから。
その為に、本命の客がいる身でありながら他の男に見受けの話を出されれば承諾する娼もいるくらいなのだ。
それなのに、全然嬉しくない。
全然、喜べない。
むしろかなしい。胸が痛い。
「よかったね、高埜様なら大切にしてくれる。目も…きっと治してくれる」
よかった、と雪花は言った。
だけど、朱李にその表情は分からない。
微笑んでいるのか、睨んでいるのか、
泣いているのか。
「おめでとう、朱李」
「雪花…俺は…っ」
そっと伸びた手が、頬に触れる。
「幸せにね」
暖かい手はそのまま離れ、優しい人は、部屋を出て行った。
翌々日は実に早く、そっけないほどのスピードで訪れた。
「紅に…白でいいな」
雪花は、部屋に居ない。
巧真だけが朱李の前に居り、着付けをしていた。
シュッシュッと、帯が擦れる音をするのを聞きながら、朱李はぼんやりと目を伏せていた。
今日の客は、一晩を共にする客としては、初めての客。
それでいながら、この身を金で請う客。
断ることは、叶わない。
「出来た。朱李、髪は…」
「巧真、やっぱり今日は…」
「飾りは銀にしような。榛に銀で…映えるだろ」
朱李の言葉を切って巧真は続け、無骨な手で髪を結い上げた。
雪花が部屋に帰って来なくなってから、楼主の茜から身請けの話を聞いてから、巧真も、部屋にいる時間が短くなった。
以前なら仕事のないときは朱李の傍にいて、話をしたり、舞の手解きをしてくれたのに、呼ぶまで来ず、挙句、用事が終わるとさっさと何処かへ行ってしまう。
言葉を遮られ、まだ紅の塗られていない唇を朱李がかみ締めると、簪が髪に次々と刺さった。
「今日は……高埜様とか」
「………」
鈴でも付いているのか、耳元でシャラシャラと鳴る簪が、どんどん頭に刺さる。
「高埜様なら、幸せになれるだろ。金持ちだし…」
「…巧真は、お金があれば幸せになれるとでも思ってるの?」
金。金、金、金金金。
それだけがあれば幸せになれるなら、こんなに胸が痛いことなどあるはずないのに。
「そうだろ? お前は…貴方は、娼なんだから」
「…っ…たく…っ」
リンリンリン。
「榛姫―――、高埜様のお着きですよ」
階下からの声が、呼び出しの鈴の音が、声を遮る。
「参りましょう、榛姫」
この男の名を呼んでなんになるのだろう。
金を得るために傍にいるこの男に。
手を取られ立ち上がった朱李は、紅を引き忘れた唇を噛み、じわりと滲んだ朱で唇を染めた。
「失礼致します」
巧真に手を取られて霞の間へと向かうと、既に高埜将晴は到着している様子だった。
「御用の際は、鈴を」
「わかった」
世話役と客の短いやりとりの後、すぱんと軽い音がして、朱李の背後で襖が閉まる。
沈黙。
「…榛姫、朱李に御座います」
顔見知りでも名乗りを上げなければならないのをぼんやりと思い出し、裾を引きながら朱李が畳に手をついて頭を上げると、目の前の空気が一瞬動いた。
「そう硬くなるな。もう何度も逢ってるだろ? それに…話は聞いているはずだ」
「…はい」
「なら返事を聞きたい。俺に、身請けられてくれるな?」
「………」
自分が、首を横に振れる格ではないのをこの男は知っている。
「…はい…」
頷いた朱李の顎に、手が伸びてきた。
普段朱李の周りにいる人は、驚くからと、まずは声をかけて、どのくらいの距離に自分がいるかを知らせてから、手の先に触れる。
しかし、将晴はそのまま顎に触れ、くいと上向かせた。当然、朱李は驚く。
「ぁ…ッ」
驚きついでに体勢を崩し、正座していた脚がほどけ、そのまま横座りになると、顎を掴んだまま上向かせた男は、小さく、低く笑った。
「榛姫、裾が乱れているけど…それは俺を誘ってると見てもいいのかな」
「違…っ…違い、ます…っ」
慌てて裾を直し、脚をまとめるが、時は遅い。
顎から離れた手がダンと強い音を立てて畳みに手のひらをはる。腕の間に挟まれ、圧倒的な威圧感に朱李は見えないながらも恐怖を抱き、ごくりと唾を飲んだ。
雪花。
雪花と、あの綺麗で優しい太夫と笑んでいた男の声は、もっと優しかった。包むような声で雪花と呼び、時折なにか笑っていた。
君が雪花が…雪花太夫が面倒を見ている子か。よろしく、俺は高埜将晴だ。
あの時握手を、と差し出された手は暖かかった。
それなのに、この手は冷たい。
自分の肩を押して畳につけ、脚の間を撫でる手は、酷く、冷たい。
「ひ…ッ…ぃ、や…、たく、巧真ぁ!!」
「朱李!?」
悲鳴から幾秒も経たずに、応の声。ダンと裸足の脚が畳を蹴ったと同時に、上に覆いかぶさっていた威圧感が退き、入れ替わりに、部屋中に、弦を張り巡らしたような緊張感が覆う。
「…客に楯突くのか?」
「当楼の娼が悲鳴をあげる場合は、御無体をなさった証拠と捉えろと、楼主に言われておりまして」
一瞬でも動いたら肌に血潮が吹き出そうに思うほど、きつく強く張り巡らされた緊張の弦。
降りる沈黙。
しかしそれは長くは保たず、ふ、と笑った微かな声に消えた。
「今夜はお引取りを、…高埜様」
「まあ…今宵は俺が悪いな。榛姫を驚かせてしまったようだ」
ギシリと畳が軋んで、将晴が上から退くと、ふっと軽くなった気がして、朱李は詰めていた息を吐く。
「また来るよ、榛姫。今度は身請けにね」
短い言葉と同時に、手が取られ、甲にやわらかな唇の感覚。
それはすぐに離れると、足音とともに遠ざかっていった。
あとに残るは、巧真と、畳に仰向けになったままの朱李。
しかし、もう一人、居た。
「…将晴…」
呟かれた声に、朱李はびくりと体を震わせた。
間違えようもない声。
雪花。
「…せつ、か…?」
「…約束…」
くすり、と笑んだ声が、耳朶を通る。
「ねえ、将晴。約束…」
くすくすと零れる笑い声は酷く澄んでいて遠く、染み入るように深い。
それはやがて遠ざかり、耳朶から引いていった。
キシ、サラ、キシ、サラ、と酷く定期的な足音と衣擦れとともに。
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