かごしとね 8
名を呼びたかったが、喉の奥で滞ってしまったのは怒声とも悲鳴ともつかないもので、結局はなにも吐き出せないまま昂稀は目前の光景にただただ呆然と立ち尽くしていた。
脳裏を、先ほどの利勝の言葉がゆったりと渦を巻く。
―――肌を許していながら…
やわらかい肌だというのは、昂稀は知っている。
女官たちの、白く白粉を叩いた肌ほど白くはなく、しかし健康的に白い肌はやわらかくて、肌触りが良い。
それを、昂稀は知っている。
誰より、否、誰一人として知らないことを、昂稀だけが知っていると思っていた。
「ゆ…」
あの肌に許されているのは、自分だけだと思っていた。
「…ず……」
あたたかい肌。
ひとがあんなにあたたかいことを知らなかった昂稀にとって、抱きしめてくれる腕は、たとえその腕の持ち主である柚の本意でなくとも、驚くほどにいつもあたたかかった。
受け止められること、受け止めること、抱きしめられること、抱きしめることを知らずに育った昂稀にとって、自分を包み込んでくれる柚の肌は、腕は、手のひらは、なによりも安らげる場所だった。
しかし、その場所はたった今、なくなってしまった。
他の男に穢されてしまった。
自分がいつまでも呆けているうちに、取られてしまった。
探しても探してもどこにもなく、どこにあるかすらわからず、やがて探すことをやめてしまった、あたたかい場所。
やっと見つけた、二度と失いたくない場所。
失われてしまった場所。
「ゆ、ず…っ」
声がかすれて喉が痛いと思いながら、昂稀は向けられた背に近づいた。
敷布に散った紅が、否が応にも目に入る。
脚を引き摺るように傍らに立った昂稀は、初めて自分の目頭が痛いほどに熱くなった事に気付いた。
何故だ、と思うより先に、大粒の雫が目から落ちた。
雫になりかけて頬を伝っていく水の熱さに、昂稀は初めて、自分が泣いているのだと気付いていた。
「…っく…」
四つの頃、初めて昂稀は父に殴られた。その後、母が死んだ。
六つの時、四番目の姉が落馬して死んだ。
十の年に、五番目の姉が流行り病で亡くなった。
十二になった日、五番目の兄が逆賊の手にかかって暗殺された。
二十五で、父を殺した。
今まで、何度も何度も泣くはずの場面に出くわしているはずなのに、昂稀は初めて、自分が今泣いているのだと知った。
凍ったように涙は一度たりとも流した事がなかったのに、今になって溶け出してきたかのように涙は後から後から尽きず、目頭を焼き、胸を苛む。
息苦しさに喉を鳴らした昂稀に、気付き、ゆっくりと柚が振り返る。
振り向いた双眸は、一瞬驚いたように見開かれた後、苦笑するようにやわらかく撓んだ。
「もう…なに泣いてんだよ。…まったく、あんたが苦しまないために俺、ここまで来たのに…」
おいで、というように手のひらが昂稀を招く。
鼻を啜り上げて歩み寄ろうとし、しかし脚が上手く動かず脚を擦るように三歩ほど進み、寝台の傍まで来るととうとう膝を折ってしまった昂稀に、また柚が笑う。
仕方ないな、しょうがないな、とでも言いたげに小さく笑った柚は、体のどこかに痛みでも走っているのか、僅かに眉をしかめながら起き上がった。
「迎えに来たのか?」
「……」
声が出ないのは、その分雫が零れていくからなのだろう。
頷いた昂稀の目尻を指先で拭って、柚は馬で駆けたり道順も知らぬ宮中を走り回ったりしたせいですっかり乱れた髪を撫でた。
「黙って出てってごめん。でも元は俺が起こした事だから…俺がちゃんと責任とらなきゃって思ったんだ」
「……」
「あんたにとっては嫌な事ばかりしてるけど…でも、あんたが苦しまないように、俺も動きたかった。あんたが…昂稀がゆっくり眠れるようにしたかったんだ」
そう言って柚はごめん、と小さく囁き、涙腺が壊れたかのようにぼろぼろと雫を落とし続ける昂稀の頭を抱いき、そっと小さな声で耳朶に囁いた。
耳に届いたささやかな言葉に、涙を知らなかった王はただただ、その温かみに泣いた。
腹が痛いというのは、本当だった。
しかし振り返った先に、この国にいるはずのない男を見つけた瞬間、確かに下腹の痛みが薄らいだのを柚は気付いた。
二十五にもなるいい年をした男は、まるで世界の終焉でも訪れたかのように悲愴に満ち溢れた感で泣いており、時折子どものように喉を鳴らした。
なぜ彼がここにいるかとは、一瞬しか考えなかった。
乱れた髪に、草原と砂漠を横切ってきたせいで薄汚れた衣装。陽に焼けた頬にぼろぼろと零れていく雫。
自分を捜しにきたのだと、傲慢でもなんでもなく、ただ自然に柚はそう思った。
「もう…なに泣いてんだよ」
咄嗟に出た言葉は、苦笑が混じっていた。
「…まったく、あんたが苦しまないために俺、ここまで来たのに…」
しかし、続いて出た言葉は、自分でも思いもしないほど素直な気持ちだった。
これ以上苦しまないように、眠れない夜を過ごせないようにするために、様々なものから少しでも解き放たれるようにするために柚は隣国までやってきた。それなのに目前に立ち尽くした王は、ぼろぼろの様相で泣いていた。まるで母親の手のひらを失い、さまよって泣きじゃくる子どものような風貌で。
それがとても哀れで、とても悲しくて、そして痛いほどに愛しくて、柚はゆっくり寝返りをうって手のひらで招いた。
すると昂稀はずりずりと脚を擦りながら近寄って来、寝台のすぐ傍まで来ると、膝を折って座り込んだ。
まるでもう限界だといわんばかりのその様子に笑いがこみ上げてきて、思わず小さく笑いながら起き上がった柚は、僅かながら腹部に走った痛みに眉をしかめながら、寝台に腰かけた。
柚は小柄で昂稀は大柄なのに、今は柚が昂稀を見下ろしていた。
「迎えに来たのか?」
問いかけると、いつもは剣呑で、眠っているとき以外は常になにかを警戒しているような光を隠さずにいた双眸から、ぼろりと雫が落ちた。
その雫を指先で拭ってやって、柚はそっと昂稀の乱れた髪をなでた。
「黙って出てってごめん。でも元は俺が起こした事だから…俺がちゃんと責任とらなきゃって思ったんだ」
浅い考えで昂稀の役に立てればと思い、謀反にまで繋がる道筋を立ててしまったのは柚だ。正式な誓書があるわけでも、公式な場での公約でもない約束は、柚か利勝が黙ってしまえば誰が発端かは解らなくなるようなものだったが、それでも柚は、自分の手で決着を付けたかった。
しかし、それが更に昂稀を恐慌させ、こんな異国にまで取り乱して駆けつけるようなことを招いてしまったのだけれど。
硬い髪を撫でながら、柚は大柄な体を跪かせたままの王に、そっと声を落とした。
「あんたにとっては嫌な事ばかりしてるけど…でも、あんたが苦しまないように、俺も動きたかった」
言葉に偽りはない。
他国の王に歌を贈り、我を失くして静かな恐慌に引きずり込み、挙げ句一言も告げずに飛び出した。
それが昂稀にどんな影響を与えようと、根本にあるのは、全て一つの思いだった。
「あんたが…昂稀がゆっくり眠れるようにしたかったんだ。…ごめん」
少しでも、彼がゆっくりと眠れるようにとそれだけを祈って。
それだけを願って、柚は歌を唄い、己を壊し、逃げ出した。
まさかそれが、更に昂稀を苦しめる事とも思いもせず。
しゃくりあげるように喉を鳴らす王は、許しを請う言葉にも鼻をすするだけで、応えられないようだった。
ただ大粒の涙を零している。
まるで庇護を求める子どものような様子に柚は小さく笑い、腕を伸ばした。
硬い髪を抱きしめる。
傲慢なほどに肌を暴き、嵐のような激しさで柚を翻弄した男は、抱擁に、そろそろと膝に額をのせた。
そして、声をあげて泣いた。
護ってくれる存在を見つけた子どもが抱える安堵を感じたようなその声を聞きながら、柚はただただ、膝に染みてくる雫の熱さに苦笑し、小さく唇を開いた。
「もう離れない。愛してる…昂稀」
呻くような声で泣く昂稀の声がやみかけた頃、利勝がひとりの少年とも少女ともつかない人物を連れて戻ってきた。見たところまだ十代か、二十代前半のその人物は、腕に抱えた白い布と水の入った桶を持ったまま、利勝の後ろにそっと立った。
利勝は、広い背をまだ僅かに震わせながら柚の膝に縋る男を見ると、やれやれとばかりに肩を竦めた。
「珪王殿、離れてくれないかな。伊鈴(イリン)を連れてきた意味がなくなってしまう」
「…嫌だ」
苦笑とも宥めともつかない利勝の声に昂稀は否定を示しすと、聞き分けのない子どものように柚を腕に抱き上げて立ち上がった。
「なっ…やめ、やめろよ、昂稀っ」
未だ体内からは血が溢れてきている。それに構わず抱き上げられた柚は焦ったが、昂稀は二度と離さないとばかりに柚を強く抱きしめ、利勝を睨みつけた。
「柚は連れて帰る。斉の世話にはならない」
「意地をはるのもいいが、そのままでは柚は血まみれで帰る事になるのだよ」
「いい」
「よくない」
「いいわけがありません」
それでもいいと突っぱねるように言った昂稀に柚はあわてて否定を示した。すると、それに重なって、利勝が連れてきた伊鈴という名の人物が昂稀の腕に手を乗せた。
「降ろしなさい。処理は私がやりますから、あなたは退いてなさい」
拒否も否定も出来ない強い口調で言った伊鈴は、早く、と昂稀の腕を至極小さな白い手でパチンとたたいた。
「お前は誰だ、指図は受けな…」
「降ろしなさいと言ったでしょう。早くなさい」
「嫌だ!」
「降ろしなさい!!」
垂れた目尻のたおやかさに合わない強い口調で言うと、伊鈴は再度昂稀の腕をたたいた。
しかしそれに反抗するように昂稀は更に強く柚を抱きしめた。砂漠や草原を駆けてきたせいか汚れたい服には既に柚の血が付着しており、それを目の留めると伊鈴は下がった眦と相反して上がっている眉をしかめた。
「早くなさいと言ったら早くなさい。まったく聞き分けのない」
ぴしゃりと言うと伊鈴はおやおやと背後で嘆息する利勝を振り返り、口を開いた。
「立っているだけなら、この方にいい加減にしろとでも仰ったらいかがです。あなたなんですよ、寝ていた俺を起こしたのは」
「それは悪かったね。珪王、悪いようにはしないから柚を降ろしてはくれないか。このままでは私まで責められてしまうよ」
苦笑を隠さずに言う利勝だが、その笑みに対して昂稀は更に警戒を抱いたのか、柚を抱える腕を降ろすどころかじりじりと後退した。
「悪いようにしないと言われて信じられるか。どういう経緯だったにしろ、お前は柚を組み敷いて怪我までさせた。それにそこの者はなんだ。信用ならない」
獣のように警戒心を露に昂稀が言うと、利勝は全く、と肩を竦めた。
「怪我ではないよ、その血は。それにこれ…伊鈴は私の正妃だ。両性ではあるが、既に子を擁している身。柚を任せるのに適任だと思って、眠っているところをわざわざ起こしたのだ。これ以上機嫌を損ねると後で嫌味を言われるのでね、頼むから伊鈴に任せてくれないか」
「正妃…? 斉王に妃は未だではないのか」
「未だとは失礼だね。生憎と、今年で八年目だ」
「八年目だろうがなんだろうが宜しいですから、早くなさい。俺は眠いんです」
「わかった、わかったよ。ほら珪王、はやく柚を。このままだと伊鈴に叩かれるぞ。存外にこれは手が早いんだ」
だから早く、と利勝が言う横から伸びてきた手が、また昂稀の手を叩いた。
白くたおやかな、伊鈴の手だ。
「やっぱり、降ろすのはお待ちなさい。どうせだから湯殿までそのままでいなさい。俺にはこの子は抱き上げられないですから」
柚をこの子、と言った伊鈴は薄汚れてた昂稀の裾を掴むと、こっちへ、とそのまま引っ張った。当たり前のように昂稀は抗議の声を上げたが、まったく気にしない様子で伊鈴はそのままぐいぐいと引っ張り、王専用と思われる湯殿へと引きずり込んだ。
「な、やめろ、離せ」
「年長者に向かって離せとはなんですか、いいから言うとおりに倣いなさい」
「年長者!?」
どう見ても柚と同じくらいか、少なくとも昂稀よりは年下に見える伊鈴に柚が驚きの声をあげると、いきなり湯殿にまで引きずり込まれて怒りやら驚きやらに黙ってしまった昂稀から柚を引き摺り下ろして、そうです、と斉国正妃は頷いた。
「俺は今年で二十七。珪王は二十五だから、俺の方が年長者でしょう。さあ、珪王は出て行ってください。処理は俺がしますから」
「駄目だ、俺もここに」
「五つ六つの童でもあるまいし、我侭言っていないで早く出てお行きなさいっ」
大声で怒鳴りつけると、伊鈴は怒りに眉をつりあがらせて昂稀をどんと押し、無理矢理湯殿からたたき出した。
つい今しがた出逢ったばかりながら、目の前の人物がおっとりした見た目に反して大層な短気である事を知ってしまった柚は、逆らわないようにしようと思いながら、自らの体液で真っ赤に汚してしまった衣服をぎゅっと握り締めた。
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