かごしとね 9
小さく白い手のひらだからと油断していたため、たたき出されたショックが強く暫く呆然としていた昂稀は、背後からかかった声にようやく己を取り戻した。
あの喧々囂々の騒ぎのせいか、自分でも混乱していると思うほどに取り乱していた気持ちはすっかり落ち着いている。
「大丈夫かい、珪王。すまないね、あれは見た目に反してかなりの猛者でね。私もよく小突かれているんだよ」
あれ、というのは紛れもなく伊鈴の事だろう。
本当に見た目に反してだとぶつぶつぼやきながら立ち上がった昂稀は、重厚な扉に遮られて水音すら聞こえない湯殿を一度振り返ってから、目前に立って笑みを絶やさずにいる利勝を見やった。
「柚の事なら伊鈴に任せるといい。大層世話焼きでね、きっちり磨き上げてくれるだろう」
「両性なのか、…斉王正妃は」
「ああ、そうだよ。初めて見たかい?」
会話の途中、至極さらりとではあるが利勝は伊鈴が両性だと漏らした。
そして、その言葉は「両性ではあるが」という響きだった。
それはまるで、柚が女性であるという事が前提にした言葉だ。しかし柚は女性ではなく、両性だ。
その意味するところは。
「いや、見たことがある。…柚は、両性だ」
何度も暴いた肌は、胸こそほとんど平らなものの、体の中心には二つの性が確かにあった。
それは柚を抱いた者なら必ずわかるはずだ。
しかし利勝は、伊鈴を両性、柚を両性とは違うもの、として言葉を紡いだ。
「お前、柚を抱いてないな」
「おやおや、ばれたね。そのままにしておくのも面白いと思ったんだが…」
僅かながら怒りを含んだまま昂稀が言うと、利勝はさも残念だと言うように肩を竦めて椅子に腰掛け、手のひらで傍にある椅子を昂稀に薦めた。
「まあ、役得として胸までは触らせてもらったがね、それ以上は事に及ぶ前にあのとおり、月のものが来てしまってそれどころでなくなったので伊鈴を呼ぼうとしたら、君に出くわしたわけだ」
「胸を触った? 月のもの?」
「触ったというか撫でたというか…平らだね、彼…彼女と言うべきかな、柚の胸は。これから成長するのかな。それと、月のものだが…その様子だと、初月だったようだね。祝宴でも開こうか?」
「黙れ、あれに触っていいのは俺だけだっ」
「まあそう怒るものではないよ、役得だからね。それに、君も悪いんじゃないかい、珪王」
薦められた椅子に腰を落としたものの、噛み付くような勢いは衰えないまま昂稀が怒鳴ると、相も変わらず利勝はなにかを含んだような言葉を吐いた。
いつもいつも茶化した言葉しか返さない割に、この王は時として油断ならない発言をする。
眉をひそめた昂稀に、利勝は脚を組みながらにこりと笑った。
「君の事を、私は少し…かなり過大評価していたようだ。若いながら父王を退けて民のために圧政を取り除いた獅子王…そう思っていたのだがね、立派なのは獅子王だけだったようだ」
「…どういう意味だ」
「王として、君の資質は申し分ないだろう。愛国心に溢れ、民を慈しみ、奸臣を退ける。言っては悪いが、奸臣を擁し、民を虐げた前王に比べれば、遥かに賢王だろう」
「………」
貶す言葉は発せられていないはずなのに、言葉の裏に含まれるものはなにか闇がある。
黙ったままの昂稀に、斉王は笑みを消した。
「…しかし、柚にとっては…あの小鳥にしては、酷い男だったろうね。つい先月かそこらに会ったときより、遥かに痩せて…肌には鬱血もあった。服はお仕着せで沓も随分と足にあわないものだったし、髪は乱れていた…なにより私が見つけたとき、彼は寝るだけの宿にいた。仮にも珪国国王が愛玩している小鳥がだ」
「愛玩じゃない、…愛してるんだ、俺は、柚を」
「それなら何故、柚は国使も連れず、訪国の伺いも立てずに単身でぼろぼろになって斉まで来たんだい? 逃げ出したのかと疑ったのだよ、私は」
「…それは」
柚は、自分が原因となった物事だから、自分で決着をつけたいのだと言った。
しかしそれを昂稀に前もって言わなかったのは、ただ一度のすれ違いが大きな溝を作ってしまったからだ。
言い澱んだ昂稀に、利勝は再度笑みをもらした。
「言わなくともいいよ。私に言われても意味が無い事だからね。獅子王としての素質は高い、しかし一人の人間として柚に向き合うことには、まだまだ半人前だという理由は自分で考えて、自分で理解するといい」
「………わかった」
頷くのは口惜しい気もするが、ひととしての言葉には重みがある。
渋々ながら頷いたまだ年若い王に、ところでと脚を組みなおした利勝は、肘掛に肘をつきながら昂稀を見やった。
「絹の件は…私と柚の会談で決めても構わないね? 絹の取引の件は私と柚との間で交わされた契約だからね。君の口出しは望まないよ」
「口出しは、しない。だがもし斉からの物的、人為的要望があった場合は介入させてもらう。そして全て柚に任せる。もしもこちらになんらかの損害が出たとしても、全て俺が責任をとる。仮にも俺は珪の王だ」
「いいだろう。ま、彼の手腕に期待するとするよ」
至極楽しげに笑った利勝は、扉の向こうから聞こえてきた愛妃の、子どもを叱責するような声にくつくつと喉を鳴らした。
清めてくるのは体だけかと思っていたが、頭から綺麗に洗われてしまった柚を後ろに引き連れて扉を開けた伊鈴は、椅子に腰掛けて笑んでいる斉王と、先ほどよりは幾分かマシに引き締まった隣国王の顔を見比べると、こっちへ、と柚の手を引いて昂稀の隣に座らせた。
「やあ、ご苦労だったね」
「まったくです。…で、あなたと珪王は話をなさったんですか?」
「ああ。あとは柚と話すだけだ。休んでもいいよ、悪かったね、夜中に起こして」
夜半に起こした妻を気遣い、利勝は立ち上がると伊鈴の腰を抱いた。しかし伊鈴は眦の垂れた目で利勝を見やり、睨むように見据えたあと自分の腰を抱く夫の手の甲をたたいて落とした。
「用事が終わったら用済みですか、俺はここにいます。よろしいですね」
「まあ…居てもいいが」
「でしたらお座りなさい」
どこまでも強い口調で言われて苦笑しながら利勝が笑ういながら腰を下ろすと、伊鈴も隣に腰掛けた。
食い違っているようできちんとかみ合っているとも見える二人を呆然と見ていた柚は、さて、と利勝が口を開いてからはっとして目前の王を見つめた。
「会談を始めようじゃないか。珪王からの了解も得ている、全て君に任せるそうだ」
どこまでも余裕な態度を崩さない斉王の言葉を得て膝の上で手のひらを握り締めた柚は、それならばときっと顔を上げた。
「国が独占で絹の売買をしたい」
「独占取引だね。そうして、こちらの利益は?」
「……昂稀、本当に俺が決めていいのか?」
強く希望を示したはいいが、先に利勝に言われたように、これは国同士の大きな取引だ。政治の何たるかなど微細も知らない自分が決めてしまっていいのだろうかと今更ながら問いかけると、先ほどまで柚の膝から離れずに泣きじゃくっていた男と同一人物とは思えないほどしっかりした顔立ちに戻った王は浅く頷いた。
「お前の思うようにしろ」
「…わかった。りか…斉王、そちらへの…斉国への利益として、こちらは絹布の安価での提供を約束する」
「ほう、絹布の安価提供か。それでは一反いくらで?」
問いかけに、柚は必死で考えた。
思い返すのは、珪から斉まで短いながら、一緒に旅をした布卓の言葉。
糸が安く仕入れられれば、その分絹布だって安くなるのだ。
「そちらが一巻を二量で提供してくれるなら、一反…一反、三量でそちらに提供する。内訳は大まかに、まず糸代として二量、関税として国へ一畔、織職人への給金として四畔、斉への輸出入を行ってもらう卸人に一畔。残りは次の輸入に繰り越すための国費だ」
「王宮の独占と言っていたが、その独占権についての支払いはないのかい?」
「二反につき、一畔、国が支払う」
「ふむ」
よくもここまで考えていると感心したとも、もしくは所詮は浅知恵、ここまでしか考えられなかったかと呆れを含んでいるとも言える音を喉から発して、利勝は隣に腰掛け、先ほどの気の強さなど微塵も感じさせないほど静かにしている伊鈴に向いた。
「どう思う、伊鈴」
「…そうですね、今考えたにしてはいい案かと思われます。最低限の価格ですし、なにより珪にも斉にも国としての利益がある。元値は安いですが、その分互いに利益がある。ただ…なぜ独占にする必要があるのかと」
「だそうだが、うちの正妃殿は」
利勝に先を促されて柚は、少し考えてから口を開いた。
「市井からの声を…ごく一部のだけど、市井からの声を聞いたんだ。平等に卸されるはずのものが、ほぼ独占状態でなかなか多くは入荷できずにいると。しかもその糸を珪に持ち帰り、仕入れ値に更に上乗せして売り捌いている役人がいるとも聞いた。だから、そんな事が起こるなら、国の管理下に…王の管理下において市井への平等な卸をした方が、国のためにもなるって思ったんだ」
「市井へ卸すのかい?」
「三割は王宮の機職人に任せて、残り七割は、一巻きにつき二量二畔で王宮指定の問屋に卸す。問屋では卸し先の機物屋を登録して、一件につき毎月決まった分だけ捌かせるようにする。問屋での一巻の値は限度額を国で決めて、それを遵守させる。これなら財政にも負担は来ないし、不平等も起こりにくい、民のためにもなる」
斉での仕入れ値は二量だが、関税としての一畔も支払うので、仕入れにかかる雑費などを考えれば、二量一畔は安価だ。
それを見込んで柚が言うと、利勝は目元を笑ませて口を開いた。
「いいだろう。珪王、それでかまわないかい」
「ああ」
「それでは今後の国交の要にもなることを祈っているよ」
珪王である昂稀の許しを得てようやく頷いた利勝は、柚に手のひらを差し出した。
大きな手のひらを握り返しながら、柚は珪の王宮を出てからようやく体の力を抜いた。
正式な会談ではなかったが、後に正式な文書を交わそうと約束した翌日、国をほぼ無断で空けて来たので即刻帰国しなければならない昂稀の馬に柚は乗っていた。
突然の、前触れなど何も無い失礼極まりない訪問だったが利勝は笑顔でそれを許し、伊鈴は「まったくです」と言いながらも柚を馬に乗せた昂稀に、いつまでも「体は大切になさい、あなたじゃないですよ、柚のことです」と繰り返した。
公式訪問ではないので見送りは利勝と伊鈴だけだったが、二人に送られて斉を出た柚は、つかまることなくいた昂稀の部下たちとともに草原と砂漠を抜けた。
さすがに早駆けの馬だけあって、常からして脚が早い。しかし柚の体を気遣ってか、あまり鞭はならさずにぽくりぽくりと馬をすすませている昂稀を上目で見やって、柚は自分を包むように後ろから回されている腕にもたれた。
昨夜散々泣いたことが今になって恥ずかしいのか、昂稀は出発してからまともに口をきかなかった。
しかし昼過ぎ、やっと口を開いた昂稀の言葉に、柚は思わず苦笑した。
草原を駆け抜ける風に前髪を散らしながら前を見据えたまま、珪王はゆっくりと口を開いた。
「…柚」
「ん?」
「俺の妃になれ」
短いながらもこの先の未来が全て含まれている言葉を言うと、昂稀は馬を止まらせて柚を見下ろした。
「俺の妃になれ。もう…あんな思いはしたくない」
「あんな思いって?」
なんのことだと柚が首を傾げると、昂稀は手に握っている手綱をぐっと強く握りながら眉根を寄せた。
「いきなりいなくなって…お前はもう離さないと言ったが、それでも俺は、お前がいなくなった時、もう終わりだと思った。もう死のうと…生きている意味などなにもないと思った。だがお前は戻ってきた。もう離したくないんだ。だから、俺の妃になれ」
「…だから…って」
傲慢な物言い。
それなのに、その裏に確かにある懇願に苦笑を漏らしながら、柚は傾げていた首を反対側に揺らして口を撓めた。
「やだ」
「なっ」
「ほら、置いてかれるぞ」
握られたままの手綱を揺らして、柚は馬を進ませた。昂稀の部下たちは、いつの間にか先に進んでしまっている。
自分の代わりに手綱を取る柚を見下ろして、昂稀は明らかに狼狽した声をあげた。
「なにが嫌なんだ、…もう籠に閉じ込めたりしない、お前の嫌がることはしない。だから」
「だから、じゃない。あのな、こういう事はしかるべき手順とか踏んだあとに言うもんなんだよ。なのに俺たち、まだ接吻もしてない」
最初はそうではなかったものの、体の関係からはじまって監禁、すれ違いを経てきた。
それなのに、接吻すらまだしていない。
こんなちぐはぐな恋愛があるものか。
茶化すように言った柚に、あ、と口をあけてようやく気付いた昂稀は、それなら、と体を屈めた。
「今しよう、それから妃になれ」
「だーめ。そんなに焦るなよ。まだまだこれから長いんだろうしさ…接吻もゆっくりして、そのときになったら、俺はあんたの妃になる。それまで待ってて」
今は、時期じゃないのだ。
ほぼ解決したようなものだとは思うが、謀反の事だってこれからあるのだし、王宮内を糺すこともしなければならない。
それが済んでからでいいと、柚は思った。
どうせこの先、愛に餓えすぎて何を求めていたのか自分ですらわからなくなっていた王とは長い付き合いになるのだろうから。
待ってて、との言葉にすっかりしょげた様子でうな垂れた昂稀を、柚は見上げた。
視線の先には、今はうな垂れている王がいる。
しかしこの先、彼はきっと前を見るだろう。
誰よりも先を見、誰よりも珪という国を案じるのだろう。
その時、自分は傍にいたい。
その為の最初の一歩は、今から始まるのだと感じる。
そしてその一歩が、やがて唇に落ちてくる小さな接吻なのだ。
柚は、そっと微笑った。
やがて降りてくる、ただひとりの男からの、初めての接吻を待って。
END ----------
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