囚恋 2
刑務官の仕事は意外に多い。
この刑務所に赴任してから一週間が過ぎた日、遠野は夜勤をしていた。宿直室には同僚の男が一人。先ほど彼が見回りに行ったので、今度は遠野だ。
「そろそろ行ってくる」
「ん…ああ、気を付けてな」
「ああ」
うたた寝をしていたらしい彼の眠そうな声を聞きながら宿直室を出て監房舎に行くと、部屋のあちこちから安らかないびきや歯軋りが聞こえてきた。
この監房は三階が独房になっていて、そこへは階段で行く。革靴の音を響かせないように階段をあがって三階の踊り場に立った遠野は、ふっと廊下を横切った人影に体を硬くした。
誰かいる。
―――脱獄か?
咄嗟に身を潜めながら静かに階段をあがって三階の廊下に立つと、すぐ手前のドアがガチャガチャと鳴って、カチャンと鍵がかかった音がした。
部屋のプレートは302。伊勢の部屋だ。
「……」
どうするべきか迷いながら周りに誰もいないのを確認してマスターキーで鍵を開けると、狭いベッドの上でごそりとシーツが身じろいだ。
「伊勢、起きてるのはわかってるんだ。顔を出せ」
後ろ手に鍵を閉めながら低く落とした声で言うと、そろりとシーツがめくれて、決まり悪そうな表情をした伊勢が顔を出した。
「…ごめん」
「なんで外に出た。鍵は何であけたんだ」
「…これ」
最初の質問には答えずに、意外に素直に伊勢は手のひらに握っていた細いピンを差し出した。緻密に折れ曲がったそれは、確かに鍵の役目も果たすものだ。指先でつまんで取り上げると、伊勢は拗ねたわけでなく、幼い仕草でシーツごと膝を抱えた。
「なんでよりにもよってあんたに見つかるんだよ…」
「馬鹿、俺に見つかって良かったと思え。…今回は見逃してやる。ただし、訳を話せ。脱獄しようとしたのか?」
他に理由があるはずだと遠野は踏んでいた。
伊勢の格好は、監房内で過ごすにはかまわないかも知れないが、この寒い中、薄着だ。いくらなんでも脱獄には向いていない。また、床に履き散らかされているのもただのスリッパ。こんなものを履いて逃げてもすぐに転んでしまうはずだ。
言ったら見逃してやるからと顔を近づけると、伊勢は抱えた膝を左右に軽く開いたり閉じたりして言いよどんでいたが、そろそろ戻る時間が近づいてきた遠野が早くしろと急かすと、ようやく口を開いた。
「あんたがさ…あんたが今日は宿直って聞いたから、なんか会いたくなっただけ。話したかったんだよ」
それだけ、と言って伊勢は顔をあげると、
「もういいだろ。鍵は渡したし、訳も言った。もう帰れよ」
暗闇でよく見えない顔でそう言い、そのまま硬いベッドに身を投げ出してシーツをかぶってしまった。
「おい伊勢」
「…」
「伊勢」
「うるさい、なんだよっ」
「話がしたいなら昼に来い、夜に勝手に出たら、俺は話をする前にお前を罰則しなきゃならん」
「………」
「わかったな」
「……」
「わかったな、伊勢」
「わかったよっ」
「ならいい。また明日な」
小さな子を寝かしつけるときのように、ぽんと小さく頭をなでてから遠野が背を向け、ドアノブに手をかけると、くぐもった声が響いた。
「…明日さ、話聞いてよ」
「わかった。おやすみ」
「おやすみ!」
返ってきた就寝の挨拶は先ほどのつっけどんな切羽詰ったような言葉でなく、どこか照れくささえ感じるものだった。
翌日、作業が終わり、昼食後の穏やかな休み時間、職員室にいた遠野を、伊勢が呼んだ。
こら、ここは立ち入り禁止だと他の刑務官に怒られても伊勢は笑い、少しだけだからと手を合わせた。他の囚人たちと違い、模範的な伊勢に職員も仕方ないな、とだけ言い、追い出したりはしなかった。
「なんの用だ?」
やってきた理由はわかっていたが、わざとらしく問うと、伊勢は遠野の首に後ろからしがみついて、ぐりぐりと捻らせた。
「わかってるだろ、昨日、話しようって言ったじゃん」
「言ったか?」
ぐいぐいと引っ張るのを笑いながらデスクの上の書類を片付けると、伊勢は不意に心配にでもなったのか、声を細くした。
「いっ…言ったじゃん。昼ならって…」
ぼそぼそと語尾は掠れて消え、首を絞める手の力が弱まってくる。さすがにいじめ過ぎたかと苦笑しながら官長に昼休み言ってきますと告げると、伊勢が背後でほっと息をついた。
「嘘つき。やっぱ言ってたじゃんか」
囚人衆の中では一番年が低く、加えて囚役態度がとてもよく、模範的だと伊勢は可愛がられている。あんまりダダっ子するなよと笑い混じりに二人を送り出す官長にじゃあね、と手を振ってから伊勢は文句を言うが、嬉しさに満ちた声では責める口調も穏やかだ。
背中によじ登ってきた伊勢を落とさないまま、昼飯にと買ってきていたコンビニのサンドイッチと飲み物を持って遠野がどこに行くと声をかけると、伊勢は小さな声で、宿直室と言った。
普段は人のいない場所なので、まあいいだろうと一旦職員室に戻って鍵を借りると、職員室から少し離れたところにある宿直室に向かう。
先ほどまで元気に遠野の首を引っ張ったりしていた伊勢は、いつのまにか静かになっていた。
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伊勢は書きやすい子です。
遠野は書きにくい男です。
なんでこうも違うかな…。
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