金魚草 6





   
 ドス、と酷く鈍い音が響いた。
 それは皮を裂き、肉を抉り、骨を絶つ音だった。
「ぁ…」
 ズキ、と傷が痛んだ。
 とくん、と腹で、小さな生命が脈打った。
 全てをかき消す勢いで、目の前の獣が吼え、肘から下がなくなった腕を抱えて、ドウと後ろに倒れた。
「かかれ!」
 何よりも望んだ、けれど今は自分を追い詰める男の声とともに、手に手に得物を構えた兵たちが駆け寄り、後ろに倒れてもがく獣を槍や刀などで裂いた。
「朱妃様はこちらへ…!」
 揉みくちゃにされそうになりながらよろめいた紀憂を支えたのは、双六の相手をしてくれた桓慶だった。
 どうして救われているのだろうと考えながら桓慶を見上げた紀憂を、彼は驚愕に満ちた目で見やり、おかわいそうに、きっと痕が残ると呟いた。
「心配はありません、熊は征伐されました。若君が貴方を救うために射たのです」
「し…さま、が?」
「そうです、史昂様です。さすがは弓の名手、熊の腕だけを見事に射ましたよ」
「どうし、て…?」
「朱妃様?」
「どう、して…」
 なぜ、この期に及んであのひとは自分を助けたのだろうか。
 それを問おうとしたが、熱く焼けるように痛む胸に反して、指先が冷えているのを感じながら紀憂の思考は闇に溶けた。
 悲痛な響きで自分を呼ぶ、次代の若き王の声を聞きながら。
 



 胸が痛い。
 それに気付いたのは、夢と現実の狭間だった。
 夢を見ているのか、それとも現実に起きているのか、それすらわからないなかで、ただ唯一わかっているのは、裂かれた胸の傷が痛む事と、先ほどは感じていた腹の鼓動が、感じられなくなっている事だった。
(どうして……?)
 獣を前にしても、元気に鼓動していたはずの生命。
 それがいまは、静寂だ。
(死んじゃった…?)
 頬を伝う涙を感じた。
 熱いそれは辿った軌跡を焼くほどに熱く、胸の深い場所、傷よりずっと下にあるどこかを酷く痛ませた。
(きっと死んじゃったんだ。……母になるのに、あまりにも頼りなかったから)
 命を軽んじた罪だと、誰かが囁いた気がした。
 そして、自分ではないほかの人間の零した雫が、自分の頬に落ち、涙の軌跡に交わったのを感じた。
(眩しい…)
 消えてしまった命を想って泣いてくれた涙は、誰のものなのだろうと瞼をあげようとして、紀憂は外の眩しさに、目を細めた。
「紀憂!!」
 誰かがいる、と認識した瞬間、その誰かが、自分を呼んだ。
 応えるように、そっと瞼をあげる。
 光に慣れて、やっと自分がどこにいて、誰を目の前にしているかを認識できるようになった紀憂の瞳に映ったのは、背の高い男だった。
「俺が誰かわかるか、紀憂。史昂だぞ」
「はい…」
 本人の申告どおり、目の前にいるのは史昂だった。
 しかし、自信と快活に満ちた彼ではなかった。
 幾度の遠征のたびに陽に焼け、その土地その土地の風に当たってきた精悍な頬には、明らかな涙の跡があった。そして両の頬が赤くなっていた。
「助からないと思った、お前、三日も昏倒したままで…!」
「みっ、か…?」
「ああ、三日だ」
 見てみろ、と日付の入った暦板を見ると、確かに三日経っていた。
「出血が多くて、一時は助からないと言われたんだ。…傷は、残る」
「……」
 言われたとおり、朝の包帯に包まれた胸をそっと指先でなぞると、指でわかるほどの凹凸があった。
 きっと、醜い傷だろう。
「それで…その、赤ん坊…だが」
「あか、ちゃ…」
 鼓動のしない腹。
 それでもまだ膨らみは保たれていて、紀憂が咄嗟に史昂を見上げると、史昂は、その、と言いにくそうに眉をしかめた。
 その仕草に、夢で見た嫌な声が甦る。
 ―――命を軽んじた罪。
「俺が悪かった」
 まさか、この中で消えたのだろうかと自分の下腹を撫でた瞬間、史昂が頭を下げた。
 次代の王ともあろう男が、真摯に頭を下げた。
「お前の事も気にかけず…桓慶に叱られた、考えが無さ過ぎると」
 よく見ると、史昂の左頬は僅かながら腫れていた。
 あの忠実な忠臣であり、それ以前に長年の友人が、多少の手加減を加えて殴ったのだろう。いくら忠臣と言えど、王族に手を上げればそれなりの刑が待っていると言うのに、見上げた忠信だ。
「悪かった、伊杏にばかり構って…お前の懐妊も知らなかった」
「……いい、です…あか、ちゃん…いらな…でしょ?」
「そんな事は」
「い…です。死んじゃっ、た…から…」
「死んだ? 馬鹿を言うな、赤ん坊は生きてる、お前の腹でちゃんと無事だ」
「え…?」
 それなら何故、あれほどに響いていた胎動が今はないのだろう。
 問いの声を零した紀憂だったが、すぐにそれは開いた扉からの闖入者によって解決された。
「起きんだな、紀憂。私が誰かわかるか?」
「はい…」
 心配と怒りの入り混じった顔をして扉を開き、史昂を退けて紀憂に近寄ったのは、柚だった。恐れ多くも現王の王妃であるはずの柚なのに、自ら看病する気満々といった感じで脇に桶を抱え、水の入ったそれを寝台脇の卓子に置くと、手ぬぐいを絞って、紀憂の頬を軽く拭った。
 よほど心配したのか、いつもは綺麗な弧を描く僅かにつりあがった瞳のふちが赤くなっている。
 三日も寝ていた割りに、かさついたり荒れていたりしない頬は、きっと柚が濡れ手ぬぐいで拭いていてくれたおかげだろう。そう思えるほどに優しい仕草で紀憂の頬や首を拭いてやりながら、柚は口を開いた。
「あのな紀憂。赤ん坊は五ヶ月頃から動き出すんだ。腹の中で、たまに。毎度毎度動いているわけじゃない。だから、今動いてなくても大丈夫、ちゃんと生きてる」
「ほんと…に…?」
「本当だ。伊達に六人も産んでない。撫でてやったら、そのうち返事が来る。やってみな」
「……」
 言われてそっと撫でると、数秒ほどのあとに、中から返事のように、とくん、と鼓動が響いた。
「―――…ぁ」
「言っただろ。まったく…史昂は無理して急な仕事をやり出すし、かと思ったら紀憂は飛び出して熊とタイマン…どれだけ私を心配させるんだか。反省してるか、馬鹿息子に馬鹿嫁」
「俺はともかく、紀憂まで馬鹿にしないでくれ、母上」
「いいや、どっちも馬鹿だ。なんならもう一発叩いてやろうか、馬鹿息子。…まったく、子どもまで作ったくせになにをちんたらしてんだ。俺と昂稀なんかなぁ、史昂が出来た翌日には籍を入れてたぞ。しかもほぼ強姦での出来ちゃった婚だった!」
 よほど心配して興奮したせいか、いつの間にか柚は一人称が俺になってしまっているのも構わず喋り捲る。天下の珪国王妃のはずなのだが、口調はぞんざいで、余計な事まで言い始める。
 これ以上暴言を吐く前になんとかしなければと咄嗟に史昂が腰を浮かした瞬間、柚の後ろから突き出てきた腕が大きな手のひらでもって、柚の口をぱたりと塞いだ。
「……父上」
 いつの間にやって来たのか、柚の手を大きな手のひらで蓋をしてしまっているのは、昂稀だった。
「ようやく目が覚めたんだな、紀憂。俺はわかるか」
「はい…こくお、さま」
「そうだ。よかったな、傷は残るが、赤ん坊も無事だと聞いた。…馬鹿息子と二人にしてやるから、ちゃんと仲直りするんだぞ」
「え…」
 今二人きりにさせられたら、どうしていいのだろう。
 胸をよぎった不安に小さく声を漏らした紀憂だったが、それじゃあ、と昂稀は腕の中で暴れる柚を抱き上げて、他のものも連れて部屋を出て行ってしまった。
 残ったのは、もちろん当事者のふたりだ。
 普段ならば、何もない頃ならば二人でいても居心地の悪さや雰囲気への気遣いなどは抱かない。
 しかし、今は明らかに二人が二人とも、居心地の悪さを感じていた。
「……なんだ、その…」
 だがいつまでも黙っているわけにもいかない。
 先に口を開いたのは、史昂だった。
「悪かったと…思っている。言い訳をさせてくれるか」
 言い訳になるのか、理由になるのかわからないが、それでも紀憂は小さく頷いた。
 頷いたまま顔を俯けた紀憂の前で、史昂は小さく息を吸って、事の顛末を話し出した。





「…お前を騙すつもりも、謀るつもりもなかった」
 全てを話して、史昂は懇願するように言った。
 事の顛末は、いっそのこと簡素ですらある思いから始まったものだった。
 紀憂を娶りたい。
 それだけを思った史昂は、国の長である昂稀と柚にその願いを話した。
 昂稀と柚は快諾したが、次代の王である史昂が娶る相手、しかも正妃となると各司長が黙っていない。我先にと自分の娘を孫を嫁にと口煩く迫って来るが、史昂の場合は内政司長である了曳然の娘、伊杏がそうだった。
 他の司長たちの娘や孫は既に嫁ぎ先が決まっていたり幼すぎたりと、適当な相手がいないことをいい事に、曳然は娘の伊杏を史昂に嫁がせて、次代王妃の親であるという確立した地位を手に入れようとした。
 それをわかっていた史昂は、曳然を宮中から追い出すための画策をはじめた。
 もとより曳然は内政司長としてより、己の私服を肥やすために宮中にいるような男だと言われていた。以前紀憂のいた瑛麗地区の収支が明らかに平等でなかったのは内政司長である曳然の責任であり、それについての減給や処罰もそれなりにあったが、それすら乗り越えて、日々己の私財を肥やし続けた。
 そして、蓄えた私財を不動のものにするため、娘の伊杏を史昂に近づけた。
 しかし史昂は、それを逆手にとった。
 娘を気に入って傍に置いている振りをして、娘から少しずつ、親である曳然の不正な行為を引き出していく。それとともに過去の行動を洗って、査問会に掛けた。
 結果、史昂の読んだとおり曳然は内政司長としての資質が皆無とされ、内政司長の役職を解かれた。
 それが、昨日。
 ようやく全てが終わり、最後まで肉体でもって史昂に近づこうとした伊杏を避けて紀憂のもとへと向かった史昂は、約三週間ぶりに感じる安堵に、気を抜いていた。
 そして目覚めた時、毎日毎日朝も昼も夜も言われた言葉を紀憂に言われ、伊杏と違えて心無い言葉を紀憂に告げてしまった。
「お前に言った言葉じゃないんだ」
「…でも、し…う、さま、は、きらい、で、しょう?」
「俺がなにを嫌っている?」
「……こえ、か、らだ、…あか、ちゃ」
 正常に機能しない喉から零れる、醜い声。
 舞えもしない、役立たずの体。
 望まれない子ども。
「誰が言った」
 声が、震えていた。
 いつだって惚れ惚れするような明朗さで響いた声が、抑えた低さに震えていた。
「誰が言った。お前の声を、体を、…俺とお前の子どもを愚弄したのは誰だ」
「しこう、さま…?」
「言え、紀憂。誰が言った!」
 激昂した史昂を、紀憂は見たことがない。
 ここ数年、それほどまでに怒りを掻き立てることがなかったのと、怒らせる前に紀憂が傍についたことで、激昂するほどまでには至らなかったためだ。
 しかし、今は違う。
 奥歯を噛み締めて、目前にいない仇敵を睨む目線は剣呑で、紀憂はその鋭さに目を見張った。
「誰だ、誰が言ったんだ」
「ぁ……」
 伊杏だと言ってしまうのは簡単だ。
 しかし、それでは告げ口をしたようで紀憂は首を横に振り、寝台の敷布を強く握り締めた史昂の手に、己の指を触れさせた。
「だれ、が、は、かんけい、な…です。しこう、さま、が、きらい、か、ちが、う、かが、たいせつ」
 誰がその言葉を言おうと、紀憂には関係ないのだ。
 見知らぬ誰か、気にもならない人間に言われようと、関係ない。
 史昂が言ったかどうか、思ったかどうかが大切なのだ。
 途切れ途切れに紀憂が問いかけると、史昂は剣呑さを隠し切れないまま、しかし怒りをどうにか飲み込んで、浮かしかけた腰を再び椅子に落ち着けた。
「そりゃあ…お前の声が満足に出ないのは、正直残念だ」
「……」
「だが、それは…それは、その…お前の声をもっと聴きたい俺の我侭であって、お前の声が嫌いなわけじゃない。…俺の親父…父上だが、父上は母上を口説くときに、『喋っているだけで迦陵頻伽の囀りだ』と言ったそうだ。俺も、そう思う。誰がどう思おうが、俺はお前の声は迦陵頻伽の囀り…いや、もっと美しい声だと思ってる」
 じんわりと、頬に熱がこもるのがわかった。
 もしかしなくとも今の自分の頬は赤く染まっているのだろうと感じながら紀憂が俯いていると、史昂は、それに、と口早に続けた。
「お前の体だって、…今言うのはなんだが、好きだ。だから何度も抱いた。小さい胸だって、好きだぞ」
「…そうじゃ、なく、て」
「む、胸じゃなかったか?」
「ちがい、ます」
 確かに伊杏のぽんと突き出た胸を見て、僅かながら羨望したのは嘘ではない。
 しかし、そうじゃないのだ。
「ぼく、は、おどりこ、です。でも、あかちゃ、いたら、おど、れ、ない。…いるいみ、が、ない…」
 踊れない舞姫は、歌えない歌姫と同じ。
 舞えないのなら、居る意味がない。
 けれど、だからと言って命を消してしまう事は、紀憂には出来ない。
 消してしまうには、愛しくなり過ぎていたから。
 だから、と呟いた紀憂は、しかし伸びてきた腕に、声も伝えたい言葉も飲み込んだ。
「それなら、踊り子を辞めればいい。踊らなくていい、俺の傍に居てくれれば…俺と一生を添い遂げてくれればいい」
「…でも、ぼく、は、へいみん、です」
「平民だろうがなんだろうが関係ない。俺の母上だって、元は旅芸人一座だった。生まれは関係ない、大切なのは、俺がお前の事を愛してることだ。それともお前は、身分のほうが大切なのか?」 
「そうじゃ、ないで、す…」
「それなら、頷いてくれ。俺は、お前の身分も体も声も何もかも…これから生まれてくるお前と俺の子どもも愛する」
「……」
 頷きたい。
 顎をゆっくりと引いて、微笑んで応えたい。
 しかし、それが出来そうになくて、紀憂は、小さく口を開いた。
「はい―――…」
 微笑む事が出来ない代わりに、舞うことが出来なくなった舞姫は、綺麗な雫を頬に滑らせた。
 



 大陸の南東に大国をかまえる珪国の、長い歴史を綴った史実には、珪国十三代目王、史昂が記されている。
 彼は外政司長を経た後に王位を享け、善き政治をした。
 まだ若君と呼ばれていた時代には名を馳せた猛者ではあったが、彼の御世には目立った戦乱は少なく、国も荒れなかった。
 また、彼の隣には、常に微笑を絶やさない王妃が寄り添っていたと、史実には残る。
 しかし今となっては本名は残されていないが、王が好んで贈ったという朱の衣を翻らせて、よく舞っていたということから、朱妃という名が残されているのみだ。




END





 やっと終わりました。
 これほどまで長くする予定はなかった(二十話前後にする予定でした)んですが、
 自分的に完結できたかな、という気がします。

 ここまで読んでくださって、ありがとうございました!











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