金魚草 5





   
 駆け出したものの、行き先など決めているはずもなく、気付けば紀憂は史昂が整えてくれた小さな庭にいた。
 柵を隔てれば山のすぐ麓となる場所なので人の賑わいはなく、恐ろしいほどに静まり返ったその場所で紀憂を迎えたのは、夜陰にも仄かに輝いて見える、金魚草の花壇だった。
 小さな花弁が愛らしい花に歩み寄りながら、紀憂はほろほろと零れて頬を転がり落ち、土にしみこまれていく涙を流した。
 胸が痛くてしかたなかった。
 自分でも曖昧な存在としか認識していなかったのに、はっきり拒絶されると、胸が痛んだ。そして、自分の中に宿る命が愛しくて仕方なかった。
 けれど、この命は史昂には疎まれているもの。
 愛されては、生まれてこれないもの。
「ぅ…っ、く…」
 生まれるなら、誰だって愛されて生まれてきたい。
 親になら、尚更だ。
 それなのに、生まれる前から疎まれている子など、生まれても喜んでくれるのだろうか。
 それを考えると、涙は尽きずにこぼれてくる。
 ようやくふくらみだした腹を抱えて、紀憂は金魚草の花壇の中にしゃがみ込んだ。
 自分に宿った命が、痛いくらいに愛しかった。





 駆け出していった背を呆然と見つめて数分も経たないうちに、閉まった扉がコンコンとたたかれた。
「紀憂か!?」
 慌てて扉を開くが、そこに可愛がっていた金魚の姿はなく、かわりに親友であり、忠実な家臣である桓慶が血相を変えて立っていた。
「…お前か」
「ええ、俺です。大変です、裏山から熊が下りてきたとの報告が入りました。物見台の宿直も、山から熊が下ってきたのを目撃しています。直ちに兵を…」
「熊…?」
 まだ春先だと言いかけて、史昂は自分の顔から血の気が引いていくのを感じていた。
 春先の熊は気が立っている。
 冬眠の間の長い空腹感を持て余して凶暴になっている上、子どもを産んでいれば更に獰猛になる。
 そして、裏山と言えば、紀憂のためにと整えさせた、金魚草の庭が一番近い。
 あの庭は紀憂のお気に入りで、なにかあると史昂の金魚はそこにいた。
「…史昂様?」
「兵…兵を出せ。弓兵だ」
「弓兵ですか」
「早くしろ…っ」
 気付けば史昂は怒鳴っていた。
 激昂した主に驚きながら、桓慶はかしこまりましたと走り出した。
 その背を見送りもせずに壁に手を伸ばした史昂は、装飾としても実戦としても使えるため、壁にかけてあった弓矢を掴んだ。
 そうして、姿を消した寵姫を追うように、部屋を走り出た。
 誰もいなくなった部屋の扉は、二人の主人が帰ってくるのを待つように、キィ、と軋みながら半開きのままとまった。
 その隙間を、静かに風だけが通り過ぎていった。




 どのくらい泣いていたのかわからないが、すっかりびしょびしょに濡れてしまった頬を夜風にあてながら、紀憂は呆然としゃがみ込んでいた。
 史昂は次代の王だ。
 その血筋を引く子と言えど、次代王である史昂に不要と言われたのなら、不要のものでしかない。
(殺される…?)
 ぞく、と二年と少し前に自分を襲った悪寒と同じものが、背筋を駆け抜けていく。
 と、ふるりと震えたその背を、誰何の手がたたいた。
「っ…」
 びくりと戦慄いて振り返ると、そこには相も変わらず目の覚めるような絢爛豪華な衣装を身にまとった伊杏が、赤く紅を塗った唇を微笑のかたちに撓ませて佇んでいた。
「いあ、ん、さん…」
「さんじゃないわ、様とおよび。あんたはもともと下賎の生まれよ」
「…いあん、さ、ま」
「それでいいの。…まったく、平民風情がどうしてそうも図々しくなれるのかしら。史昂様に取り入るだけじゃ飽き足らず、子まで孕むなんて」
「……」
 紀憂だって、身分違いだというのはわかっている。
 大国珪の王の嫡子と、漁村の元巫女。
 二年間一緒だったとは言えど、生まれの差がなくなるわけではない。
「史昂様も言ってたわ。満足に話せもしないものなんか、要らないってね」
「…ぇ…」
 なにか鈍器で、胸か頭を強打されたような衝撃が来た。
 伊杏の唇から零れた言葉がその衝撃を与えたのだと、数秒かかって理解した紀憂は、咄嗟に唇から音を漏らした。
 かすかな声に、伊杏はさも嫌そうに眉をひそめた。
「醜い声。舞しか取り得がないのに、孕んだら踊れないじゃない。もう用済みよ、あんたなんて。史昂様の御機嫌を損ねる前に、赤ん坊もろとも消えなさいよ」
 そう言うと、伊杏はすっきりしたような顔で、それじゃ、と短く言うと、煌びやかな衣服の裾を翻して出て行った。
 ひとり残った紀憂は、瞳を瞬かせ、いっそ微笑んでいるような表情のまま、ぽたりと一粒雫を落とした。
 その雫が地面に触れるより先に、ガサリ、バキ、と、小さな庭と裏山とを隔てている柵が壊され、なにか巨きなものが、庭に押し入った音がした。
 しかし紀憂はただぼんやりと、それを見上げた。
 小山のような、熊だった。




 紀憂は、生まれてから十四年間を、海辺で暮らした。
 怖ろしいものといえば鮫や台風、津波だった。
 動物もいたが、家畜である豚や牛や山羊、犬だけだった。
 なので、文献でどういったものかを知ってこそいれ、実物は見たことがなかった。
「……ぁ」
 怖い、と思った瞬間、熊が吼えた。
 それこそ辺りを揺るがすような、大音声で。
「ぁ、あ、ぁ…っ」
 地響きだと思うほどにびりびりと震えた地面に恐怖の声を漏らし、紀憂は一歩あとずさった。
 しかし、それを追うように熊も一歩踏み込む。
 巨大な、紀憂の二倍はあろうかという背丈の熊。
 爪は長く頑強で、太い腕と太い足。涎にまみれててらてらと光る牙は隠しようもないほど口から出ている。この頑強で獰猛な獣の一撃で、紀憂は簡単に死ねるだろう。
(誰か……っ)
 心では助けを求めながら、普段以上に使い物にならない喉に焦れて、紀憂は咄嗟に再度一歩、後退した。
 しかしその一歩が熊のなにかを奮わせたらしく、声を上げる間もなく、紀憂の目の前を、太い腕と硬い爪が通り過ぎていった。
「……」
 半円を描くような軌跡を描いて紀憂の前を過ぎていった爪は、じわりと、熱湯を垂らされたような熱さと軽い衝撃を一瞬の後に伝えた。
 なぜ熱いのか、なぜ今よろめいてしまったのかとふと自分を見下ろした紀憂は、ああ、と小さく声を漏らし、胸に手をやった。
 近頃になってようやく膨らみだした胸のあたりが、無残にも裂かれ、内から染み出してきた赤いもので染まりつつあった。
 裂かれた傷はズキズキと熱を持って疼き、白い寝間着を鮮烈な赤に染めていく。
 胸を押さえたまま、紀憂は先ほどの恐怖がぼんやりと薄らいでいくのを感じていた。
(これだけで、死ねるんだ)
(あと二、三回、…一回かな…)
(案外、苦しくない…)
 死ぬのはいやだと思っていた二年前の自分は、まるで他人のようだ。
 あんなに恐れていた死を目前にして、紀憂は恐怖どころか、霧のような、薄い喜びすら感じていた。
(それに、これなら…史昂様の手を煩わせない…?)
 舞を美しいといってくれた史昂。
 紀憂という、唯一の親からの形見である名前を褒めてくれた次代の王。
 幾度も幾度も紀憂を抱いた男。
 それなのに紀憂は何度も何度も、史昂に迷惑をかけてきた。
 だから、最期くらいは煩わせずに逝きたい。わざわざ刀で首を刎ねたり、処刑台の手続きをしたり、宮中から紀憂を追い出すための算段をしなくて済む。なにより、熊はひとも食べると聞いている。それなら死体すら残らずに、血を水で流すだけの処理になる。これ以上に簡単な方法はない。
 いつになったら熊の手は振り下ろされるのだろうと、すっかり覚悟をして獣を見上げた瞬間だった。
 体の一部で、他の鼓動が鳴った。
「ぁ…」
 無意識に手をあてていた、下腹だった。
 とくん、とくん、と鼓動を繰り返しているのを感じる。
(でもまだ五ヶ月…)
 そう思いながら、す、と腹を撫でた紀憂は、そのままぼろりと大粒の涙を落とした。
 紀憂が死ぬだけなら、史昂の手を煩わせずに済むだろう。
 しかし、紀憂が死ぬという事は、腹のなかの子も死ぬという事だ。
 まだ満足に形も成していず、生まれてすらいないのに、その子も死ぬという事だ。
 まだ、五ヶ月ではない。
 もう五ヶ月なのだ。
 この世に生を受けて、五ヶ月も経つのだ。
 確かに、五ヶ月を紀憂のなかで生きているのだ。
「ぁか、ちゃ…」
 不甲斐ない、まだ年若く未熟な母を怒るように、叱咤するように、しかしどこか甘えるように、とくん、とくん、と鼓動は手のひらに響く。
 紀憂とは違う、しかしどこか連動した小さな鼓動が。
 はぁ、と熱の篭った息を吐きながら、腹を撫でる。
 とくん、と鼓動が返る。
 生きている、という証が。
(ごめんね)
 ひとりで死ぬつもりでいた。
 けれど、もうそんな気にはならなかった。
 疎まれていようが、忌み嫌われていようが、この子は紀憂の子だ。
 誰でもない、紀憂の子だ。
 これから生まれて、幸せな、もしかしたら不幸せな、この子なりの人生をおくるだろう。
 しかし、それは紀憂が今を生きなければならない。
 紀憂が今を生きなければ、この先に繋がる数年、数十年に繋がらない。
 それを断ち切ってしまっていいとは、とても思えなかった。
(ありがとう)
 生きなければならない。
 この子のためにも。
 生きて、この子を生まなければならない。
 そう決意した紀憂の頭上を、ゆっくりと振りかぶった熊の太い腕の影が通り過ぎた。





 史昂の初陣は、13の時だった。
 遠距離から弓で敵将の首を狙い、見事刎ねた後、愛刀一振りで敵陣に突っ込んで蹴散らした。
 その際の暴れっぷりが派手だったためか剣豪で知られる史昂だが、趣味が狩りであるため、実際は刀よりも弓の方が優れている。
 なので、部屋にも愛用の刀と弓が置いてあり、弓は特に愛用していた。
 あまり数のいない馬の尾を弦にした弓は矢を遠くへ飛ばし、鉄の矢尻に、改良を重ねた風切羽をつけた矢は、あたった相手の肉を満遍なくこそぎとるような弓矢の一対のもので、史昂は戦の際はそれを愛用していた。
 なので、史昂がその弓矢を持ち出すときは、戦の際か、緊急事態の時だ。そのためか、『危急』という言葉になぞらえて、『鬼弓』という名が付けられていた。
 そして今、史昂はその鬼弓を片手に、金魚草の庭までの廊下を走っていた。
「史昂様、お待ちを! 危険です!」
「黙れ、俺の寵姫がいるんだ!」
 慌てふためいて、なんとか史昂を留めようとする桓慶を振り切って廊下を駆け抜けた史昂は、飛び出した庭に佇む巨大な獣と、その獣の前に立ちすくむ寵姫を見つけ、驚愕に目を見開いた。
 夜陰にも眩い白い寝間着の胸元が、花でも咲いたように真っ赤になっていた。
 そして、大切そうに腹を押さえた紀憂の頭上に、今まさに熊が腕を振り下ろそうとしていた。
 あの腕が振り下ろされた瞬間、二年も可愛がってきた金魚は、永遠に史昂の腕からすり抜けて消えてしまうだろう。
 ざっと、背中をなにかが走りぬけた。
 感じたことのない感覚。
 ざわめきは背中を撫でて胸を掻き立てた。
 腕が震えるのを感じながら、史昂は弓をつがえた。
 ギリギリ、と弦を引く。
「お止めください、若。仕損じれば、朱妃様が…!」
「黙れ、獣に殺されるくらいなら俺が射殺す! あれは俺の寵姫だ…!」
 海で拾った舞姫。
 生きるを救ったのなら、死すらこの手に治めてみせる。
 止めようと手を出してきた桓慶を退けて弓を引き絞った史昂は、躊躇わずに矢を放った。
 放たれた矢は、獣と舞姫、どちらかの命を攫うために、空を切った。











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