かごしとね 5






 
 柚が姿を見せなくなってから三週間ほど過ぎた頃、不穏な噂が立ちはじめた。
 旧王制に栄華を極めていた奸臣たちが、前王を弑逆したばかりの頃は、武勇と治世を良く治めていた昂稀がすっかり腑抜けてしまっている今、決起を起こそうというのだ。
 まさかだろうと思いながらも、和秦はその噂を耳にして眉をしかめた。
 確かに近頃の昂稀は政務室に篭り、一応政務をこなしているものの以前のような覇気は全く無い。政務をしていない時は政務室から露な嬌声が漏れ聞こえるようなことばかりを繰り返し、その事は今や宮中の誰でも知っている事だった。
 腑抜けていると言えばそれまでだ。
 しかし、以前の王であった昂稀の父、祥昂よりは遥かに良い王ではないかと和秦は胸中に思った。
 祥昂は酷い王であり、燦々たる親だった。
 民を悪政で虐げ、溺愛した妻との実子を十一人もその手にかけた。唯一生き逃れた昂稀も一度として祥昂の膝で甘えた事もなければ、優しい声で「昂稀」と呼ばれた事すらないはずだ。
 しかしそんな王でも支持する者というのは必ずいて、祥昂の場合、奸臣たちからの支持は高かった。
 民には悪政を強制したものの、派手と争いと荒淫を好んだ祥昂は、奸臣たちの格好の餌だったからだ。
「まずいな…」
 今の状態で謀反や一揆など起こされても、昂稀は抗えるだろうか。
 以前ならば忠臣、勇士たちを率いて、上手く制圧したに違いない。
 だが、今は。
「………」
 獅子王と渾名された王。
 しかし、と和秦は拳を握った。
 王である以前に昂稀は、親に愛されず、兄弟に恵まれず、狂気と悲哀に埋もれながら育った不十分な青年でしかないのだと。





「外政司長寛央陽殿、農政司長黄鋳卓殿、参謀次長葛椎寒殿、財務司次長梁虔殿…この四名が、謀反を企んでいるとの噂が」
「…他には」
 人の口を伝って広まりつつある噂をひとりで調べ上げた和秦は、夜半、昂稀の政務室を訪れていた。
 灯りもつけずに月光だけを明かりに窓辺に二人で佇む傍には柚の籠があり、その中ではしどけない姿で籠の鳥が眠っていた。
 今は穏やかな眠りを貪っている柚を起こさぬようにと、和秦は声を潜めた。
「定かではありません」
「後ろ盾は誰だ」
「まだ特定は出来ませんが…他国からの国政干渉を後ろ盾にしているようです」
「…他国か…陶国、環国、祐国は有り得ないな…」
「陶、環、祐は東峰同盟加入国です、国政干渉をするはずがありませんし、むしろ珪からの国政干渉を望んでいる国々です。…外政司長殿は近頃、絹と香辛料をかなりの安価で、またかなり大量に仕入れたとか。それを市井で売り捌いているそうです。恐らく、決起に必要な資金繰りをしていると思われます」
「絹と香辛料か…」
「ん…」
 呟いた史昂の声に、小さな寝言が重なる。
 和秦が声の方向を向くと、ゆっくりと柚の瞼が薄く開いた。
「……こう、き」
「…寝てていい」
 小さく昂稀が告げると、柚は頷くように瞼を閉じた。
 長い睫が、月明かりに照らされた白い頬にほの暗い影を落とす。
 しばらくして、すう、と続いた呼吸に柚が寝入ったのを確認して、和秦は口を開いた。
「柚様は…しばらくどこかにお預けになるか、どこかへお隠しになった方がよろしいかと思われます」
 宮中で起こる謀反となれば、争い会う同士の位が高いためもあり、結果的には血生臭くなることは避けられない。だがそれに柚が耐えられるかが和秦には心配だった。
 しかし、昂稀は首を振った。
「もう無理だ」




 意識は醒めていた。
 今まで、薄い膜がかかったように不明瞭だった世界が、一気に破られて、光と現実を受け入れ始めたのは唐突だった。
 ぼんやりとして、まともに耳に届かなかった声は、明瞭として届いた。
 謀反がはじまる。
 宮中が揺れる。
 王が、反される。



 和秦が去り、ふたりきりにもどった政務室で昂稀が溜息を吐いた。
 籠の入り口を開けて入ってきた王を感じながら、柚は目を閉じたままでいた。
 すっと周ってきた腕が、狭い寝台から柚を引き摺り、床におろす。
 まるで人形を掻き抱く子どものような仕草で抱きしめてきた昂稀を薄目で見ながら、柚はそっと腕をあげて、広い背中を抱いた。
 やがてその体が揺らいで、ゆっくりと床に敷いた褥に倒れるまで。




 毛足が長く、ふかふかとした褥に眠る王を見ながら、柚は音もなくそっと起き上がった。
 よほど疲弊しているのか、腕の中から柚がいなくなった事にすら気付かない。
 このまま気付かず、朝まで安らかに眠ってくれる事を祈りながら柚は立ち上がり、籠を出た。
 久しぶりに自分の足で出た外界は、網目から充分に窺い知れる場所であったはずなのに、どこか素っ気なく感じる。それが、世界から自分を切り離した場所で傍観的にあの強引な行為を認めていたからか、それともいつでも光の入る、皆が行き交う政務室とは違った退廃的な雰囲気が流れているか、どちらとも柚は確定できなかったが、それを敢えて深く考えず、足音を立てないように素足をひたりひたりと床につけて歩いた。
 指先でとんと押せば、扉は容易く開く。
 一ヶ月も籠に監禁されていたのが嘘のように、粗暴で乱雑で横暴な、けれど寂しい王から逃れるのは簡単だ。
 すい、と裾を乱して、柚は扉を後ろ手に閉めて政務室を出た。
 音もなく扉が閉まる。
 静かに、小鳥は逃げ出した。




 裸足で抜け出した柚は、一ヶ月の監禁生活ですっかり鈍らになってしまった体を不自由ながらも駆使して宮中から飛び出した。
 途中で洗濯籠から盗んできた衣装に着替えて沓を履いた柚は、夜陰に紛れながら道を歩いた。
 明け方のこの時間、上手くいけば他国へと行商する商人たちの荷馬車に乗ることが出来るはずだ。今ではもうかなり昔のようにすら感じられてしまう、旅芸人をやっていた頃に培った知識を基に城下街を外から守るための門へと急いだ柚は、案の定、外へ行商をしに行くための許可書を貰おうと門前に長らく列を作っている行商の一団を見つけた。
 数多くいる行商人たちだ、一二団は斉国に行くものもいるだろう。
 すっかりほつれて乱れに乱れている髪から簪を抜き、柚はそれを見下ろした。
 紅珠が尾につき、粒の紅玉が連なるそれは、いつだったか、昂稀が戯れに柚の髪に挿したものだ。
 王である昂稀が与えたものだから、きっと高値になる。手放したくはなかったが、まともな旅賃となるものはこれしかなかった。
「あの」
「ん?」
 簪を手のひらに握り締め、柚はすぐ傍に停めてあった荷馬車の男に声をかけた。どうやら彼は仕入れに行くらしく、荷馬車にはそう物は載っていない。
「お兄さんは何処に行くひと?」
「俺か? 俺は斉に」
「斉なら乗っけてくれないかな」
「いいけど…なんか見返りはあるのかい? あんたを乗せたら、俺はあんたの身分を詐称しなきゃなんないんだけどね」
 なにか見返りを、と手のひらを差し出してきた男に、柚はくっと下唇をかみながら、握り締めていた簪を差し出した。
「これでいいだろ」
「ほう…こりゃ本物かい? ツヤが違うね」
 差し出された簪を取った男は紅色をした球を片目で検分したあと、いいだろう、と簪を懐にしまいながら頷いた。
「あんたは今から、俺の妹…弟…ん、あんたどっちだ?」
「どっちでもいいよ」
「じゃあ妹な。あんたは今から俺の妹だ。俺は歐布卓(オウフタク)。布卓でいいからな」
「わかった」
「あんたの名は?」
「俺は………俺、は」
 素直に名乗ってしまったら、それだけ足がつくのが早くなる。咄嗟にそれに気付いた柚は、ごくりと唾を飲んでから口を開いた。
「……迦陵(カリョウ)」




 布卓の妹という名目で検問を抜けた柚は、本名を告げないまま、迦陵として珪国の王都翔珪を出た。
 翔珪から、斉国王都である斉霞までは約三日。その間に追いつかれやしないかと思案しながら荷馬車の荷台で揺られていた柚は、ふと襲ってきた眠気に目をこすった。
 昨日の明け方に翔珪を出たときから感じていたのだが、どうにも体がだるく、頭の中に靄がかかったように、常に眠気が襲ってくる。
 久しぶりに出た外界に、軽い驚きを感じているのだろうかと思いながら柚が目を擦っていると、荷馬車がガラガラと酷い音を立てて止まった。
「少し休むか。どうしたんだ、眠いのかい」
「ん、少し…」
「宿まではあと少しだから起きてな。ついたら飯食って、それから休んだらいい」
「うん…」
 出掛けに代償を請求はしてきたが、布卓は好青年だった。自分は延々馬を操りながらも、暇を持て余して荷馬車でぼんやりするしかない柚を気遣ってか、しきりに話しかけてくる。
 今通っている草原を抜けた先にある町の宿まで寝ないようにと、布卓は、翔珪に織物屋を構える家の次男だと自分を話した。
「前まではそこそこに仕入れてそこそこに売ってたんだけどさ、最近異常に斉国からの絹が安くなってさ。品質が落ちているかと思ったんだけど、そうでもなく、ただ安くなったんだ。だから今のうちに買い取ろうって、皆躍起になってる」
「どこのくらい安くなったんだ?」
「んん…そうだな、わかりやすく言えば、前は一巻で三量だったんけど、今は一量なんだ」
「半分くらいになったんだな」
「まあ、そんくらいだ。だから売値は一反で八量くらいだったのが、今じゃ六量くらい。俺たちの取り分は大して増えてないけど、安い分お客は喜んで買いに来る。それこそ、滅多に買いに来ない人も」
「布卓は嬉しくないのか?」
 斉国からの絹の輸入額が激減したのは、あの昏君が律儀に約束を守ったためなのだろう。
 しかし、布卓は眉根を僅かに寄せて首を横に振った。
「嬉しくなくはないけど、谷の次は山が必ずある。いつ値上がりして、それに対応できるか、それと…俺たちに入る分は、微々たる物なんだ、実際は」
「微々?」
 パン、と馬に鞭をくれてやりながら布卓は柚の問いかけに頷いた。
 停まったときより重々しい音を立てて、荷馬車が進みだす。
「外政司長の寛央陽って知ってるかい」
「寛央陽…」
 昂稀と和秦が謀反の疑いありと話していた人物の名前を意外なところで聞いて柚は思わず口篭ったが、布卓は言葉を続けた。
「そいつが殆どを買い占めてる。今日関門のところにいたうち、斉に向かう奴らの殆どは寛の部下なんだ。あちらに渡る数が多い分、寛の取り分は増える。あちらに渡れる日にちが多い分、寛の収入は増える。その分、俺らの取り分は減る」
 苦々しげに言う布卓の背を見ながら、柚はどうしてもゆっくりと降りようとする瞼を擦った。どうにも眠い。ただずっと荷馬車に揺られているのもそれなりに疲れるが、眠気を覚えるほどのものでもない。それに、気のせいかだるい。
 寝てしまわないようにともう一度瞼を擦りながら柚は再度疑問を投げた。
「なんで布卓たちの分が減るんだ? 卸問屋が一緒なのか?」
「絹糸は、斉の政的資源だ、専門の卸問屋がいて、一業者につきの卸す量を一定にしてるんだ。だけど、俺たちが一得られるとしたら、寛の奴は手下を使うから、七から八くらいは手に入れる。不公平だと思わないかい」
「うん…」
「せめて四か五くらいならまだ我慢できる。でもな、寛の奴、自分の取り分を自分で反物にあげないで、絹糸のまま国内で捌きやがるんだ。値段は、斉で仕入れる額が一巻につき一量だから、珪で捌くと一巻で一量と八畔。輸入税として一畔は取られるのが決まりなのに、奴は外政司長だから、その権限を活かして、輸入税を免除してる。だから八畔が取り分で、斉まで行く奴には二畔やってるって話だから、奴の実質の取り分は六畔。仕入れたものを全て売り捌くから、仕入れ値は全額還ってくる。だからもし寛が十仕入れたら、奴の取り分は六量。百仕入れたら六十量。千仕入れたら、六百量…銀六つだ。とんでもねえぼろ儲けさ」
「…ん…」
 難しい話だが、わからないわけではない。要するに、昂稀と和秦が言っていたように外政司長の寛央陽が斉国から仕入れた絹を珪で価格を上乗せして売り捌いているのだ。それはわかるし、卑怯で卑屈な手段をと、柚も苦々しく思う。
 しかし今は、眠い。だるい。
 曖昧な返事を最後に、とうとう柚は眠気に負けて瞼を閉じた。
 それに気付かず、暫くの間布卓はひとり喋り続けた。


※百量で銀塊一個分の価値。十畔で一量。








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