かごしとね 2
二度膝を貸しただけで、昂稀はそれからも疲れれば柚の膝を借りるようになった。
しかも寝台や長椅子まで行けばそこで膝を貸すというのに、昂稀はなぜか狭い檻の中で寝ることを望んだ。
寝る本人が檻の中がいいと言うのだから反対は出来ないが、こんなところで寝なくても、とも思う。
だがそれを言わないまま、また柚は膝の上に昂稀の頭をのせていた。
柚の膝にはいつも、短い休息を満喫する青年しか居ない。政務をこなし、部下や臣たちの前では毅然とした表情の王はそこに居ないのだ。
しかし、今日は違い、少しでも疲労を癒そうと眠る青年ではなく、政務の滞りに苛立ちと焦りを抱えた王が、柚の膝に寝そべっていた。
普段なら膝を貸してすぐに目を瞑る昂稀だ。
だが今は気難しげに眉をしかめ、鋭いままの瞳を閉じもせずに、どこか遠くを見ていた。
「寝ないのかよ」
昂稀が眠っているなら自分もうつらうつらと舟を漕ぐくらいなら出来るが、昂稀が起きているなら、そうもいかない。
寝るならさっさと寝やがれと思いながら柚が問いかけると、休息無き王は喉を唸らせた。
「…外政司長の横領を、どうにか現行犯で捕まえたい」
「寝ろよ」
「収賄もあるんだ、奴は」
「寝ろ」
「あいつを査問に掛けられたら、芋蔓式で他のもつかま」
「寝ろ、馬鹿」
政治の話をされてもわからない。
だから黙れというのも含めて口を手のひらで塞ぐと、王はむぐ、と声を詰まらせて目だけで柚を見上げた。
「今は休み時間なんだろ。寝てろ」
見上げてくる視線を、さらに手のひらでふさぐと、二度ほどの瞬きのあと、昂稀は目を閉じた。下がった睫が手のひらを撫でる。
「半刻…いや、一刻したら起こせ」
「ああ」
普段の休憩は約半刻だが、今日は一刻と長めに取り、昂稀は体に入れていた力を抜いて、本格的に眠る体勢に入った。
入っていた力が抜けた分、膝に乗りかかるようにかかった重みに柚は少し眉を顰めたが、やがて聞こえてきた寝息に、少し笑った。
手のひらを退けた下からは、王ではない、ただ疲れて眠る青年がいた。
「…・・・・・・」
「おや、上手だね」
朝食を終え、することもなくひとり政務室の籠の中に座っていた柚は、暇を持て余して歌を口ずさんでいた。
特になにを思って歌うわけでもなく、ぽかぽかと晴れた日ざしを浴びながらの歌だったのだが、ふと背後からの声に驚き、柚は歌声を断ち切った。
そろそろと振り返ると、書簡を手にした和秦が立っていた。
「なんだ、和秦か…」
「なんだとは心外だね。ところで、いい声をしているんだね」
「ん…まあ、元は歌い手だったからさ、劇団の」
素直な言葉で誉められたのがなんだか照れ臭く、はにかんだように柚が笑うと、つられて和秦も笑った。
「どんな歌を歌ってたんだい?」
「なんでも歌ったよ、恋歌、狂歌、悲歌、郷歌、詩歌もだし、祭囃子なんかも」
男女の濃密な恋を歌ったものから、祭りで騒ぐひとたちを更に掻きたてるように囃すものまで、なんでも歌った。
指を折々言った柚に、ほう、と感心したように声をあげた和秦は、それなら、と声をあげた。
「子守唄は?」
「子守唄? 歌えるけど…」
唄えはするが、数えるほどしかない。唄う機会もないし、知っている数も少ないのだ。
口淀んだ柚だったが、しかし和秦はそれならと笑んだ。
「我が主に歌ってくれないだろうか」
「…は?」
「我が主…昂稀様に歌って差し上げてくれないだろうか」
「なんで」
昂稀は二十五、柚は十六だ。何故九つも上の大の男に子守唄をと眉をしかめた柚だったが、和秦の苦笑に、更に眉根のしわを深くした。
「なんでって…それはやはり、必要だからだろうね」
「必要なもんか、大人だろ、あいつは」
一国の王相手にあいつ呼ばわりはいただけないが、柚の言葉は確かにと頷ける。
しかし和秦はだがね、と重ねた。
「そのほうが、我が主も落ち着くと思うのだよ。実際、君が来てから我が主は落ち着いた」
「そうか?」
柚としては落ち着いているとは言い難い。
朝から晩まで政務だと宮廷中を飛び回り、市井にまで顔を出し、休んでいるときといえば、昼食が終わってからの半刻、柚の膝で微睡んでいるときだけだ。
首をかしげた柚に、和秦は顎を引いて頷いた。
「以前の主は、荒れていた。長い付き合いだが、彼が無防備に眠っているのを見たのは、ほんの数回しか見たことがないよ」
「無防備に?」
柚の膝の上で、昂稀はいつも無防備だ。
無防備どころか、だらしないほどに寝こけている。それこそ、時間になったとたたいたり突付いたりしても簡単には起きないほどに。
「あいつ、いつも無防備だよ。半刻経っても起きやしない」
「それは君がいるからだろうね」
「俺? 関係ないだろ」
「あるんだよ。そうだね…試しに今日、歌ってさしあげてごらん。半刻じゃ済まないほどに休まれるはずだ」
「そんなことしてたら、政務が滞ったりしない?」
仮にも王だ。
そんなに何時間も昼寝をして、政務に影響はないのかと問うた柚に、和秦は細い目を更に細くして笑った。
「大丈夫だよ。そうは見えないかもしれないけれど、私を含め、彼の忠臣は有能者が多いからね」
和秦が去ってから昼過ぎ。
昂稀が外で食事を摂ることになったため、一人での昼食を終えた柚は、籠には戻らずに、寝具類を扱う女官のもとへと出向いていた。
「薄手でいい、敷物が欲しいんだ」
「かまいませんが…床が冷たいのですか?」
もう雨期も過ぎた初夏なのでそんなことはない。
首を横に振った柚は、自らの行動にため息をつきたくなりながら口を開いた。
「……王が休憩なさる際に一枚欲しいと思ったんだ。床に寝転ばれるから」
「そうでしたか。それでしたらこちらをどうぞ」
冬でもあるまいし、直に床に寝たところで風邪など引くはずもないが、それでも敷物の上で寝たほうが、幾分かいいはずだ。
頭は柚の膝にのっていても、体は床なので、敷物があったほうが体にもいい。
渡された上等の敷物を手に政務室へ戻ろうと歩んでいると、政務室前の廊下で、ばたばと忙しない足音と、何事かの言い争うような声が聞こえた。
「柚はどこへ行った、おい!」
「存じませんと言ってるでしょう。落ち着きください、昼食の際には見かけました。どこか散歩でもしているのでしょう」
「捜せ、休憩時間は長くないんだ」
「はいはい。……と、いらっしゃるじゃないですか」
呆れたような口調のあと、開かれた政務室の扉から顔を出した和秦と目が合った柚は、思わず手を振った。それに応えて和秦も手を振り、こちらへ、というように手招く。
「いたか!? 柚、何処に行っていた」
「飯食って、ちょっと寄り道してただけだよ。なに大騒ぎしてんだ、みっともない」
「柚様も見つかりましたし、私はこれで失礼します」
呆れたように言う柚に笑いながら和秦は、それでは、と叩頭して政務室を出て行った。
どうやら昂稀が柚を捜すために呼んだだけだったらしい。
和秦がいなくなるなり、昂稀は柚の手を掴み、籠の入り口を開けた。
「みっともなくていい、休むから膝を貸せ」
「はいはい、あ、少し待ってろよ。敷布敷くから…」
片手を掴まれたまま籠に入った柚は、もう片手に持っていた敷布を無造作に床に放った。
ばふん、と音を立てて床に落ちた敷布を見ながら昂稀はそれでも早くしろ、と急き立てる。
「待てっつってんだろ」
「早くしろ」
「十だけ待て、十だけ!」
「わかった、一、ニ、三、四…」
まるで子どものように、少し早めに数を数える昂稀に慌てながら床に敷布を敷いた柚は、よく通る低い声が九まで数えたあたりで敷布の上に腰を下ろし、十、と言ったのと同時に、自らの膝をぽんとたたいた。
「いいぞ」
それを合図に、子どものような王は大柄な体をしゃがませ、柚の膝に頭をのせて寝転んだ。敷布の長い毛足が、疲弊した王の体を包む。
「疲れた…」
小さく呟いてごろりと寝返りを打った昂稀は、鼻先を柚の腹につけた。
そして、鋭い双眸をすっと閉じる。
その瞬間、ふと柚の鼻先を、鉄臭い香りが漂った。
「昂稀…あんた、変なにおいがする」
柚が名前を呼ぶと、昂稀は少し身じろいだ。
するとまた、鉄の臭いがした。くん、と鼻を鳴らして付近の空気を嗅いだ柚は、眉をしかめた。
紛れもない、ひとの血のにおいがした。
「…斬ってきたんだ」
ぽつりと小さく昂稀が呟いた。
「なにを?」
わかってはいたが、柚が問うと、昂稀は口を開いた。
「官吏を二人、斬ってきた」
「なんで?」
「父王の御世から、収穫の七割を徴収しては改竄していた。納税は三割で充分だ、それなのに七割も徴収していた。払えるわけがないだろう。それなのに、奴等は払えなかった民を殺した。十八人も。翁が一人、老婆が二人、男が三人、女が三人、子どもが九人だ。罪もない、生きるだけで精一杯の民を殺した」
「………」
「それなのに、やつらはのうのうと生きている。まだ私腹を肥やそうと、俺に擦り寄る。役に立たないと知ったらすぐさま殺そうと、毒と剣を持ちながら。だから殺した。殺された民のような者がほかに出ないために殺し…」
先ほどまでの騒ぎようが嘘のように静まり返った王を見ながら、柚は手のひらでその目元を覆った。
「なんだ?」
瞼越しに感じる光が遮られたことに昂稀は声を上げたが、そのまま目を覆ったまま、柚は口を開いた。
「…――――・・・・」
子守唄は、歌いなれない。
けれど、血反吐を吐くように苦しげにしながらも、民を護るためにと己の手のひらを奸臣の血に濡らした王の言葉を遮る為に、柚は子守唄を歌いだした。
さやさやと風に揺られた樹が立てる葉の音よりもかすかな声だったが、王は激昂しそうに震えていた胸の熾を静めた。
硬く強張っていた大柄な体躯から力が抜けていくのを感じながら、柚は子守唄を、自らの喉で奏でた。
「…救われなかった民へ、せめてもの償いをしてきたんだ」
そして王は、守りきれなかった大切な民への謝罪をこめるように呟き、ようやくの安らぎに、眠りへ落ちた。
鎮魂歌よりも静かな響きで眠りを促す、小さな子守唄に包まれて。
昂稀が休む際、口ずさむ程度に子守唄を歌うようになってから、柚は籠から出ることが多くなった。
もともとじっとしていられない性分なので、籠のなかにじっと篭っている生活に体が拒否を示し始めたのだった。
朝食を終えた後、柚は一通り書斎と寝室の掃除をする。それが終わったら宮中を散歩する。
以前はそうでなかったと女官たちは言うが、宮中は広く、活気に溢れている。
昼食の準備にてんてこ舞いをしている厨房に立ち寄って甘い砂糖菓子をひとつもらったり、日がな訓練を積んでいる兵たちのいる兵舎で冗談を言って一兵卒たちと笑ったり、学士たちの多い学士府まで出向いて、難しい説法などを聞いたりして昼まで過ごし、昼食時間になってから昂稀の書斎に戻る。政務室で摂ってもいいと思うのだが、気が休まらないからと昂稀が書斎で食事を摂ることを望むため、柚も書斎で食事を摂る。
昼食が終わったら、籠に入って昂稀に膝を貸す。疲れてすぐさま眠ってしまう場合もあれば、午前中は何をしていたと話をせがむ場合もあり、逆に自分の午前中の行動を話したりもする。そして、眠れないからと子守唄をねだったりもする。
夢現の昂稀は、唄を歌ってやると、ぽつぽつとなにかを話すことがある。
それに耳を傾けながら、柚は今日も囁くほどの声音で子守唄を歌っていた。
「…俺の母上は、十五で娶られて、十六で俺の兄上…、長兄を産んだ」
「兄弟がいるのか?」
「俺は十二人兄弟の末子だ。上に五人の兄上と六人の姉上がいた」
「いた?」
「俺の上の十一人のうち七人は俺が生まれる前に死んだ。事故や病とされているが…親父が殺したんだろう」
「…あとの四人は?」
「死んだ。母上は精神を病んで死んだ」
「…」
「だから俺は、子守唄を聴いたことがない」
「なんで?」
「俺が生まれてすぐに兄が逆賊に殺された。父上の差し金だろうが…だから俺は、子守唄を聴いたことがない。俺だけの唄は、きいたことがない」
「………」
「代わりに、母上の悲鳴は何度も聴いた」
「……そっか」
興味がないわけではない。
我が子を次々と殺されて精神を病んだ母親と、実の親に殺された兄弟たち。
悪政を行い、末の息子に殺された父親。
柚には、俄かには信じがたい事実なのだ。
絶えず笑顔を浮かべている両親や、血の繋がった兄弟でないにもかかわらず、とても可愛がってくれた年上の団員たちが柚の家族だった。
だから柚には、「大変だったな」「可哀想だな」と同情する事が出来ない。
子守唄の代わりに、悲鳴を聴いて育ったと聞いても。
ただ、昂稀がそういった事を積み重ねてきたのだという事実を受け止めることしか出来ないのだ。
歌を途絶えさせ、事実をただ事実とだけ捉えた柚に、昂稀は薄く目を開けた。
「ああ、そうだ…」
「もう寝な。今日は遅くまで夜会があるんだろ? 途中で眠くなっても寝れねーぞ」
「…そうだな」
眠りへの誘導に、昂稀は抗わない。
柚が薄く唇を開き、小さな声で歌を歌い始めると、すぐさま瞼は落ちた。
昂稀が眠ってからしばらく柚は歌をやめず、ただ静かに、昂稀の横顔を見つめていた。
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