慈しみの花 22









 移動した昂天の貴賓宮には、昂地は着いてこなかった。
 双子の兄にも、その養子にも手を軽く振って与えられた貴賓宮へと消えていった昂地を見送り、昂天は俯いたままの真那をどう扱えばいいのかわからないまま、とりあえず手をとろうとした。しかし真那はびくりと震えて手を退け、申し訳ございませんと小さな声を漏らしただけだった。
 まるで通夜のような雰囲気のまま貴賓宮へと戻った昂天は、後をついて来たものの、悄然とした様子の真那に椅子を勧め、自らも卓子を挟んだ長椅子に腰を下ろした。
「…失礼いたします」
 昂天が腰を下ろしたのを目にしてから自らも腰を下ろした真那は、近衛官の官服に包まれた膝の上で手を握り締めた。
「林…いや、真那」
「はい」
 どちらの名を呼べばいいのか迷ったものの、結局は長年呼んで来た名を呼んだが、真那は拒否することなく応えた。
「…申し訳、ございません」
 名を呼んだはいいものの、その後の言葉をつなげられずに昂天が黙ったままでいると、やわらかな声音が沈黙を裂いた。
「なにを謝る事がある」
 問い詰めるつもりはなく昂天が問うと、真那はすっと顔をあげた。白い頬には未だ涙の軌跡が残り、長い睫毛は雫をまとってきらめいていた。
「…このような…形になってしまいました」
「このような形?」
「あなたを謀りました」
「謀った?」
「はい」
 こくりと顎を引くでもなく、昂天を見つめたまま真那は肯定した。
「もう何年も…覚えていないほど幼い頃から、あなたを謀っていました」
 呟きほどに静かに言った真那は、ですがと続けた。
「後悔はありません。愚策をと思われても構いません。ただひとつ、お許しいただきたいのです」
「なにをだ」
「全ての策は、私が企てたこと。身勝手な我侭を、珪王陛下や柚様…妃殿下はお許しくださいました。柚空…嵐王妃殿下もお力添えくださいました。どなたも御助力くださっただけです。責め立ては、私だけにしてほしいのです」
「俺がお前を非難すると、お前は言ってるのか?」
 それこそ言葉も喋れない頃から可愛がってきた真那を、叱りをしたことはあっても、詰責したりしたことはない。なにを馬鹿なことをと昂天が眉根をひそめると、穏やかな容貌で養子は小さな顎を引いた。
「お怒りになって当前のことだからです」
「俺が怒るようなことを、お前はしたことがない」
「それではきっと、これが最初で最後です」
 まっすぐに、真那は昂天を見つめた。黒眸は澄み、どこか安堵しているようにすら見えた。
「私は、珪国の人間ではありません。珪王陛下に離縁を願いました」
「り、え…」
「戯れで林伶真を名乗ったのではないのです。珪鈴莉真那は、もうおりません。珪王陛下に離縁をしていただきました」
 常は穏やかな響きの真那の声は、僅かながら速い調子で落ちた。一方昂天は、告げられた言葉のもたらした驚愕に、膝の上で衣服を握ることしか出来ずに茫然としていた。
 最早、離縁の意味がわからない。
 真那は嵐国へと嫁ぐと思っていたのが始まりだ。それは実際は異なり、共に嵐国へと旅立った柚空が嫁ぎ、真那は名を変えて側近となった。そこまでは理解が出来たのだが、なぜ離縁されたのかが理解できない。そもそも側近として嵐に身を置くのならば、名を変える必要はなかった。ましてや、離縁など必要ない。現に柚空には珪にいた頃から仕えていた女官が二人ついていったが、彼女たちの縁の根本は珪にあり、嵐国に居ても珪の人間となる。もちろん、主が嵐国の人間となった今は時折帰国することもこれからはあるだろう。彼女たちと同じような身の振り方をしたとしても、真那の今までとこれからは変わることがなかったはずだ。しかし真那は、それを珪国国王である昂稀公認で離縁を行った。また、末子である柚空と比べることもなく真那を溺愛していた昂稀がそれを許したというのは、余程ではないかと思いもするが、そこまでした理由がわからず、目前の養子を凝視したまま昂天はひたすらなにから言い出せばと、口を薄く開けたままぼうっとしていた。
「林伶真の名は、珪王陛下に授けていただきました。籍ももう、珪にはありません。代わりにと、畏れ多くも嵐王妃殿下近衛官のお役目を頂きました。…幼少の頃より育てていただいた昂天様のお許しも請わず、勝手な振る舞いを画策したのは、全て私です。責め立ては、私だけが受けます」
「待て、れい…真那、いや…いや、真那」
 どちらを呼べばいいかわからない。呼び直しを重ねた昂天に、真那はどちらに応えていたのか、どちらに応じなかったのか、ただ小さく「はい」と言った。
「なぜ離縁などした」
「……」
「俺は、お前にとって不出来な義父だったか」
「昂天様に非などございません。決して、それだけは」
 細い首が左右に振られる。艶やかな黒髪がばっさりと絶たれた白いうなじで、短い毛先が揺らぐことはない。
「それならなぜだ」
「私に、忍耐がなかったからです」
「忍耐?」
「昂天様は、私を、どのように思いますか」
「どのようにとは…」
 真那とは年齢が十三歳離れているが、義親子の関係だ。弟のようであり、妹のようであり、また息子のようであり、娘のような存在と言って、過言はない。
 どう言えばいいのかと昂天が口ごもると、真那はゆっくりと唇を開いた。
「お慕いしていると、私は申し上げました。昂天様、私はもう長い間、あなた様を義父上だと思うことが出来ずにいるのです」
「………それなら、俺はお前にとってなんなんだ」
 慕っていると言われ、その中に秘められた想いに気付かないほど、昂天も色事に疎いわけではない。それでも、それを確信することが出来ずに問いかけた昂天に、真那は最早隠すことなく告白した。
「珪鈴莉真那は昂天様を愛していたのです。育てていただいた恩を忘れたことはございません。ですが、あまりにも分不相応な不義です」
「分不相応など…お前は、珪王家の人間だぞ」
「いいえ、…珪王陛下にも、お話しました。その上で、離縁を望みました」
「本当に、父上が許したのか」
 末子である柚空と同じように真那を可愛がっていた父が、そう簡単に離縁を諾するとも思えない。確認を重ねた昂天だったが、真那は静かに頷いた。
「お許しいただきました。可愛がって頂いた恩を返せぬまま、大変な不義をしたことは承知です。ですが、これ以上昂天様のお傍に居ることは、…苦痛なのです」
「苦痛? なぜ苦痛など」
 好いているというのならば、これまでに通りに傍にいればいい。
 一も二もなく、昂天にとっての最上は今までも、そしてきっとこれからも真那なのだ。例え、いつか昂天がそれなりの娘を嫁に貰い、そして真那が愛らしい姫を娶るか、もしくは勇猛な将に嫁ぐかしたとしてもだ。
 それなのに、真那は好いていながら傍に居るのが辛いと言う。すぐ近くにいるはずの真那の胸中が、一滴ほども昂天にはわからない。
 言い募る義父を前に、真那はほっそりとした首を振った。
「耐え難いのです」
「真那」
「昂天様は、誉れある珪国王家のお生まれです。いつか由緒正しい方を娶られる。……私はそれが、嫌で嫌で仕方ないのです」
 厭うているということを告げるような表情ではなかった。どこかさっぱりとした、微風でも頬に受けているような微笑だ。
「いつかあなた様の隣に、誰かが立つ。可愛い御子に恵まれる。でも、それは私ではありえない。私は、昂天様の義子だから」
 自分に言い含めるようにゆっくりと一言一句を連ねると、真那はそれまでの落ち着いた容貌をぎゅっと歪めた。
 それはまるで、幼い子どもの泣き顔だった。
「でも、……そんなの嫌、誰にも触れて欲しくない。誰かの御子なんて抱いて欲しくない、私を…真那を、抱いて欲しい…っ」
 ひっくと大きく真那がしゃくりあげた。
 決して大きな声ではない。むしろか細い悲鳴のようで、それは限りなく深い胸のうちを軋ませた。
「もう駄目なんです…昂天っ、様、の、近くにいるだでけで、こんなことばかり…っ。こんな想いは消さないといけないのに…私は、昂天様の子だからっ…なのに…!」
 強く瞑られた双眸の淵から幾つも幾つも雫が零れて、白い頬を辿って落ちていく。震える膝に当たって弾け、布にしみこんで消える儚いさまは、物心ついてから一度も見たことのなかった養子の泣き顔そのものだった。
「昂天様しか欲しくない、昂天様に誰も触れて欲しくない、ずっとずっと、真那だけ見てて欲しい…っ」 
 最後はまるで消え入るように涙に滲み、とうとう真那は言葉すらも発せられなくなったようだった。細い肩を震わせ、痩せた首を引き攣らせる。
「…ごめんなさい…――」
 無音の落ちた部屋に、小さな声がよみがえって響き、また消えていく。
 大人しくたおやかだとばかり思っていた養子の声は、胸の深みに雪のような儚さで落ち、すっと広がっていく。
 白い頬に幾筋も雫の軌跡を描いて泣く真那を、初めて昂天はこんなにも美しい他人だったと感じていた。











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