慈しみの花 19
真那はもういないのだと、それだけを呟いて泣いた柚空は、やがてしゃくりあげながらも戻ると言った。そんな風体ではと昂天は送ろうとしたが、それを断り、代わりに林伶真をこちらに寄越すと言って、ふらふらと戻って行った。
幸せな成婚を迎えたばかりの兄弟に余計な心配を掛けてしまっていることを心苦しく思いながらも、真那にしか見えなかった林伶真なる人物が来るのをひたすらに待つ。
碗に注いだ三杯目の水を飲み干す頃、来訪者を告げる声が扉の向こうから響いた。
「妃殿下近衛官、林伶真参りました」
響いた声は、どこか抑えたような養子の声だ。容貌どころか声すらも同じでいながら尚、他人だと偽るだろうかと思いながら、昂天は入室を許可するべく口を開いた。
「入ってくれ」
「失礼致します」
扉が開き、叩頭した華奢な姿が現れる。すっとあげた顔は、やはりたがえることなど無きに等しい、養子の相貌だった。
「どのような御用でしょうか」
小さな頃は、昂天の姿を見かければ天さま、と鈴のような声で呼んでくれた。成長して声は落ち着いた響きになったが、それでも昂天を慕ってくれていた。それが今や、全くの他人行儀だ。
いっそ無表情のようにすら感じる視線を受け止めた昂天は、互いに立ち尽くしたまま、養子の首筋にかかる短くなってしまった髪の先を見つめた。
「真那という子を、知らないか」
「……」
「私の…俺の養子だ。嵐に嫁ぐと言うから喜んで見送ってやったのに、嘘を言っていたようなんだ」
「………」
「嘘をつくような子ではなかったのに…俺の育て方が悪かったんだろうな」
「て…、殿下がお悪いのでは、ないでしょうか」
詰まったような声の後に続いた、僅かに早い口調の言葉は、更に一度こくりと唾を飲んで続けられた。
「僭越ながら…養子の方にも、きっとなにか…想いが、あったのではないでしょうか」
「想いとは?」
どういう思惑が真那の胸に秘められていたかなど、昂天には知る由もない。それがわかるならば、こんなにも焦れた思いを抱えることなどないのだと問いを問いで返すと、伶真は震える声を床に落とした。
「…想い、とは…」
「想い、とは…?」
問いを重ねれば重ねるほど、視線は俯き、かすかな感情の色に染まるはずの双眸を隠していく。両腕を後ろに組み、細く白い首を前に俯けるその様子は、さながら罪人のようだった。
「わ…私、には、わかりかねます……っ」
悲鳴のような、多分の水気を含んだような声だった。小さく零れて床に落ちた声はそれ以上無く、そのまま深く頭を下げると、細い身体は逃げるように扉から出て行った。
残された昂天は、今し方まで伶真の佇んでいた場所をじっと眺めていた。滑らかな板の張られた床には、小さな雫がはじけて散っていた。
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