慈しみの花 13
宣薯山脈は斉、珪、嵐の壁と言われる山脈だ。二十もの山が連なったそこはひたすら葉の緑と樹木の茶に溢れた場所で、商人たちが幾度となく渡って踏み固められた道以外は全て獣道となる。
整備はおろか、先駆隊が通った道と目に見えてわかってしまわないようにと枝払いすらされていない山道は、登るだけでも体力と精神力を使う。先駆隊のつけた目印である樹の筒型の抉り痕を見て馬を進ませながら、昂天は翔珪にいる義子のことを思っていた。
出立は二十日という報せを、出掛けに父王である昂稀から聞いていた。二十日頃には既に不幻も撤廃されているという予測と、来月の下旬に嵐国建国二百年目の式典があるという予定の為、取り急ぎの出立となった。護衛には弟の珂昂と李昂が率いる大隊が就くことになった。既に婚礼の衣装や小物なども準備され、あとは不幻壊滅の報せを待つのみだと昂天に告げた父は、どこか苦渋を堪えたような表情をしており、ただひたすら小さな声で、すまないと告げた。
頭では、昂天もわかってはいるのだ。
王家末席にいるとはいえ、真那の身体には一滴も珪王家の血は流れてはおらず、本来ならば王やその一族の顔など一時も臨めるはずのない山奥の辺鄙な村の生まれだ。しかしそれが親を亡くして昂天に拾われ、今の歳まで健やかに育てられた。その上、他国とは言え大国の王の正妃にと望まれている。玉の輿どころか、世の女性たちならば夢にと憧れるような話だ。
また、嵐国国王愁栄はこれといった武勇や武勲、賢王という話は聞かないものの、その温厚な性格や人間として素晴らしいと言われる人柄には定評がある。彼ならばきっと、政略結婚が機だったとはいえ、正妃に迎えた真那を大切に慈しんでくれるだろう。
しかし、と昂天は樹にあけられた筒状の抉り痕を見下ろしながら心中で呟いた。
だがその先が続くことはない。意味もわからないまま靄か霞がかかったように晴れない胸中に舌打ちしながら手綱を撓らせ、昂天は腰に佩いた剣の柄に手を添えた。
「喩涼」
「はい」
主からの呼びかけに、乳兄弟でこそないものの、初めて出逢った頃から主従として接していた従僕が声をあげる。
鋭い眼差しを一瞬振り返ると、四つ年上の彼はひとつ頷いた。
「そろそろ第一門に差し掛かります」
「間諜からの便りでは、幾らと出た」
「本部には常に二百人が、第二門に百五十人が、第一門には九十人が駐在しているとの報告です」
「常駐が約四百か…その他傘下の賊たちの動向はどうなっている」
「多くが、既に砦に戻っているそうです」
「嵐国建国式典襲来案があがっているとの報告が確かになってきたな」
大隊を組んだ昂天たちが珪を出立してから三日、以前から潜入させていた間諜から、不幻設立二十周年を祝うために不幻傘下の賊たちが次々と宣薯山脈に集まっているという報告を受けた。不幻傘下の者たちが主に使う道と、先駆隊である呼桜たちが通った道は異なるため、簡単に足取りがつかまれることはないだろうが、万が一を考えて声を潜めながら昂天が呟くと、喩涼ははいと頷いた。
そこへ、早駆けのしるしである赤い紐を脚に巻きつけた馬が進路を塞いだ。
たった一頭のその馬は、背に乗った騎手を落とさないように速度を落としてやがて停まり、ブルルと嘶いた。
「珪国第二子珪央箔昂天(ケイ・オウハク・コウテン)様と御見受けいたします」
「誰だ」
「斉国第一子斉呼桜(セイ・コオウ)将軍にお仕えいたします、柑姶逸と申します」
「呼桜殿の遣いか」
「はい。通達に参りました」
「呼桜殿はもう駐屯地には着いたか?」
「はい、一昨日到着いたしました。現在は間諜を放ち、地形の把握を行っています」
「そうか。…それならば、予定通りに事は運びそうだな」
「その事なのですが…斉将軍からの書状をお預かりしております。ご拝見いただけますでしょうか」
「書状?」
こちらを、と柑が懐から出した書状の封じ目には、斉国の刻印が押されている。
実に凛々しい筆体で書された書状にしばらく視線を走らせた昂天は、傍で馬を停めている喩涼に目を向けた。
「…古くより急いては事を仕損じると言うが、俺はいい案だと思う。なにより時間がない」
書状には、本来ならば明後日総攻撃をかける予定だったのを、一日ずらして明日にしようとのことが簡潔に書かれていた。
急ぐと言うことは角度を変えて観察した場合、焦りともなり得る。だが今回は討伐のすぐ後に珪からの輿入れの隊が控えている。早めに事を済ませれば、もし残党などがいても、余分になった時間が使えると考えた昂天は、書士として控えている臣下を呼び、受け取った書状にすぐさま筆を走らせた。
『御意に』と一言の傍に自らの署名を記した昂天は、柑にねぎらいの言葉をかけた後、書状を託した。恭しい仕草で書状を受けた柑はそれを大切に懐に仕舞いこみ、深く一礼した後、勇ましく身を翻らせて元来た道を戻っていった。
葉緑に掻き消えた背中を見送り、やがて馬を急がせる。耳に響く不揃いな蹄音は耳朶に響き、今此処にいる意味を脳裏に思い起こさせる。振り払うように頭を軽く左右に振った昂天は、強めに鞭をしならせた。
不幻本拠地までは、あとわずかと迫っていた。
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