慈しみの花 4





 

 
 美しい庭と、瀟洒で小作りな宮。それが珪王昂稀の唯一にして最愛の妻であり、昂天の母である柚の持つ沙音宮だ。自らの宮と室を持つまで、昂天はもちろん、兄の史昂も、双子の弟である昂地も、さらにはその下に連なる弟たち、珂昂、李昂が過ごしていた場所でもある。
 官職を得てからは忙しくてなかなか足を運ばなかったが、育った場所でもある宮に足早に向かった昂天は、柚の室の扉をそっと叩いた。
 コンコン、と二度鳴らすと、誰、と声が返る。その声は高いわけでも低いわけでもない中性的なものだが、木の板一枚を通しても凛と響く、通りのいい声だ。
 久しぶりに聞く、母の声。
「昂天です」
 すっかり泣きつかれ、しゃくりあげる声すら弱まってきた赤子に焦りながら早口で名乗ると、すぐに応が返った。
「おかえり、開いてるから入っといで」
「失礼します」
 一応昂天は官位を持つ。礼儀を重んじて頭を下げてから扉を開けると、柚はちょうど、腕に抱いた赤ん坊を寝かしつけているところだった。
「お疲れ、…その子、昂天が助けたって言う」
「そうです。あの…」
「ぐったりしてるけど、大丈夫か? ほら、おいで」
 すうすうと心地よい寝息を立てて眠っている赤ん坊を腕から揺り篭に移すと、柚は早く、と腕を差し出した。
「さっきからずっと泣いてて…」
「腹が減ったんだろ。ちょっと待ってな、よしよし」
 泣きすぎて鼻水まで出てしまっている小さな鼻をやわらかくほぐした紙でそっと拭い、慣れた手つきで抱きなおすと、柚は自分の胸をぺろんと出し、ほら、と赤ん坊に突きつけた。
 久しぶりどころか、数年ぶりに裸の胸を見た昂天はぶっと噴き出して顔を背けたが、赤ん坊は唇にふれた体温に、あう、ん、と声を出して口を動かし、ようやく口に含めたものにしゃぶりついた。あとはもう、んくんくと細い喉を鳴らして、与えられるものを貪るように嚥下していく。
 小さな手をきゅっと握り締め、潤んだ目を薄く開きながら乳を飲む赤子を我が子のようにやわらかな視線で見つめながらあやしていた柚は、ふと顔をあげて、僅かに赤面している息子を見た。
「昂天、この子、名は?」
「名…ですか」
「そう、名前。あ、そういえば柚空の事、文で知ってるよな? 柚空、昂天兄上だぞ」
 揺り篭を覗き込みながら柚が声をかけると、さっきまで眠っていたはずの赤ん坊が、ぱちりと目を開いて柚を見、それから昂天を見た。
 端のあがった目はどことなく父の昂稀に似ているが、小作りな鼻と唇は、母の柚に似ている。昂天を見た柚空は、あう、あん、と声をあげながら手をぱたぱたと動かし、んぁー、と喚きながら自分の足を掴んだ。
「男…ですか?」
「いや、両性。よかったな、やっと妹が出来たぞ。半分弟だけど」
「公的にはどうするんですか?」
 両性という性は、実際にありはしても、戸籍に載せる際、男女どちら寄りかという事で書かれることが多い。しかし戦事になっても徴兵される事がないようにと『女』となっている場合が多く、柚もまた、戸籍の欄には『女(両)』となっている。
 自分の足を掴んだり、伸びをしたり、敷布をたたいたりと多彩な動きを見せる柚空を見下ろしながら昂天が問うと、柚は腕に抱いた名無しの赤ん坊に胸を差し出したままゆっくり小さな尻を叩いた。あて布をしているため、柚の手のひらが叩くたびにぱふ、ぱふ、と気の抜けた音がする。
「男。そのほうが宮中では色々都合いいからって、昂稀が。でも大きくなったときに自分の好きなほうにいけるように、舞も剣も文も歌も教えるつもり。…って、そうじゃなくて、名前。名前は?」
「つけてないです、まだ」
「つけてない? 一ヶ月近くも一緒にいたのに?」
「名をつけたことなどありません、俺」
「それでもだよ。可哀想に、名無しなの、お前」
 先ほどまで涙で濡れていた頬を撫でながら柚が声をかけると、名無しの赤子は喉を潤しながら、んむ、と曖昧な声を漏らした。
「早くつけてやんないと。これじゃ名前が呼べない」
「でも、俺がつけていいのですか?」
「昂天が救ったんだから、昂天がつけるのが道理だろ?」
「それは…」
 それはそうだが、名などつけたことがない。
 口ごもりながらちらりと赤子を見ると、ようやく腹が膨れたのか、かふ、けふ、と小さなげっぷを繰り返した。
「んぁん、ぁうー」
「ちょっと待っててな、今から名前つけてもらうから」
 胸をしまいながら赤子をあやし、柚は早く、と昂天をせかした。
「でも、つけ方なんて俺、わからないです」
「意味とか響きとか考えてつけるんだよ。好きな響きの名前とかある?」
「好きな響き…二文字が好きです」
「たとえば?」
「アヤとか、ヒナとか…マナとか好きです」
「んー…あや」
 不意に柚が声をあげた。
 すると、赤子はきょとんとしながら、小さく、んー、と喉を鳴らした。
「ひな」
「ううー」
「まな」
「あう、んま、まぁう」
 柚の声を聞いているのかいないのか、声をかけるとそれに応じるように小さな口が開いて、愛らしく高い声が響く。
 アヤ、ヒナ、マナを何度か繰り返したあと、柚は赤子に向けていた顔を上げて昂天を見た。
「まながいいんじゃないか? まなって呼ぶとよく喋るし。まな、まーな」
「きゃーぁ」
 呼びかけられるのが嬉しいのか、赤子は高い声をあげて柚を見つめて笑った。売るんだ黒い双眸が細くたわんできらきらと光る。
「ほら。じゃ、次は漢字だな」
「まななら…そうですね、真実の真に、那由多の那で」
「那由多?」
 なんのことだと柚が首を傾げると、まなという響きだけがついた赤子は、小さな口をあけてあくびをした。
 大きな瞳の淵に涙がたまり、眠そうに細まるのを見ながら、昂天は首を傾げた母を見やった。
「限りなく多い数のことです。たくさんの真実を知りながら育って欲しいから…」
 自然の美しさや、人の優しさや、世界の厳しさや、自分の現状、そんな、数多くのものの真実を見つめる子になって欲しいと願いを込めた意味を母に告げると、昂天は些か恥ずかしくなって俯いた。
 しかし柚はまな、と小さな声で赤ん坊に囁いてから、うんと頷いた。
「いいんじゃないか。…真那、真那」
「あう…う、うんん…」
 うとうととまどろみ始めた真那に柚が呼びかける。
 応じるように小さな声をあげて、真那はそのまま長い睫を伏せて、愛らしい寝息を続かせた。
「真那で決定だな。幼名は?」
「幼名は…父上か、母上がお願いします」
 他の国ではその国なりの風習があるだろうが、珪国では目上の人間、もしくは尊敬する人間に幼名をつけてもらうのが昔からの慣わしだ。それは将来何かあった際の後見人をお願いするという意味合いも含まれているのだが、柚はすぐに頷いた。
「わかった。じゃあ幼名はあとで昂稀と話し合うから」
「お願いします」
「可愛い名前つけるから、期待してろよ」
 ようやく名のついた赤ん坊に柚が微笑むと、眠っているはずの真那は、しかし応えるように小さく声を漏らした。








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柚さん登場。
本当に書きやすいひとです。