慈しみの花 5
暦五三四年。
「…真那!」
午前の政務を終え、昼食の後に自分の宮に誂えられた庭で剣の鍛錬をしていた昂天は、不意に視界の端に飛び込んできた小さな体にぎょっとして、振りかぶっていた剣を鞘に戻した。
庭を囲うように植えられた低い丈の植木からひょこりと出てきたのは、四年前に養子に迎えた真那だった。
水色の上着を着てひらひらと翻る裾をした下衣をつけた真那はまだ年若い養父の姿を見つけると嬉しそうに白い頬を笑ませ、腰に巻きつけた水色の飾り紐を揺らしながら昂天に駆け寄った。
小さな体は弾むように傍まで来ると、小さな手を伸ばす。それに応えて抱き上げてやると、真那は大きな黒い目を細めて笑い、小さな頭を昂天にすり寄せた。
「なんでこんなところにいるんだ。お昼寝の時間だろ?」
やわらかな髪の感触と子ども特有のあたたかなにおいのする体についつい甘やかすような声になってしまいながら問いかけると、真那は小さな唇をゆっくりとひらいた。
「てんさまもねんね」
「てんさまは寝ないよ、お仕事があるんだ」
真那や柚空にとっては昼寝の時間だが、昂天にとっては政務の時間だ。まさかさぼって一緒に昼寝をするわけにもいかず、ごめんと謝りながら細い黒髪を指先で梳いてやると、真那は明らかにしゅんとしたように眉を落とした。
長い睫が哀しそうに下がって、小さな唇が僅かにつんと尖る。
しかしそれでも、真那はそれ以上に我侭を言わない。
少しの間拗ねたように俯いていたが、やがて顔をあげて、真那は大きな瞳で昂天を見上げた。
「まな、ねんねしない。てんさまとあそぶ」
「てんさまはこれからお仕事なんだ。遊べないよ、真那」
「まな、おしごとみてる」
我侭は言わないが、頑固ではある。もしかしたらそれが我侭なのかもしれないが、こちらが完璧に困ってしまうことまでは言い出さないので、頑固なだけなのだろう。
昼寝はせず、飽くまで昂天と一緒にいたいのだという心中を、まだ頼りない言葉で紡いだ真那に苦笑して、昂天はしかたないとため息をついた。
無駄な我侭を言わないぶん頑固な真那は、一度決めればそれを頑として動かそうとはしない。
仕方ないと小さくため息をつき、昂天は真那を抱いたまま庭から廊下へと上がった。
「真那、てんさまはお仕事するんだ。長椅子で静かに出来るな?」
「うん」
にこにこと嬉しそうに笑う真那の頭を撫でてやりながら、三ヶ月前に与えられたばかりの王勅司第二軍第四隊舎にある政務室に向かった。
三ヶ月前に昇進をして与えられた執務室は一戸部隊の隊長室にしては狭いが、執務机と椅子、書棚と長椅子、そして愛用している刀が三本壁にかかっているだけなので広々としている。
室について床に下ろすと、真那はたっと駆けて長椅子によじ登った。
「んしょ…っ」
腕をぴんと伸ばして長椅子にのぼった真那は、長椅子にころりと転がり、さかさまになって昂天を見た。
「てんさま、ぐるんてしてる」
「俺じゃなくて、お前がぐるんってしてるんだよ。じゃあてんさまはお仕事するからな」
「うん」
椅子を引いて席につくと、昂天は書類の整理に取り掛かった。
王の勅令を請けて動く王勅司は、いうなれば官の中でもエリートぞろいだ。しかし七光で昇進したわけではない。
昂天が最初に志願した部署は、戦兵司だった。配属部署こそ指定できなかったが、最初に配属させられたのは王都付近の安全を守る小隊で、そこから小隊長へとのぼり、そこから転属されて王勅司第二軍に配属となり、一年の後に第四隊を任せられるようになった。
七光だと裏で囁くものもいたが、それらの些細な中傷を気にするほど神経が細かくは出来ていない昂天だ。言わせておけばいいと放っておき、今の地位にいる。
親の権力に甘んじる気も、中身のない中傷に惑わせられる気もない。その為に、昂天は政務にはいたって真直ぐな姿勢で取り組んでいた。
上からの書類に目を通し、印が必要なものには印を、資料や書き添えが必要なものには過去の文献を参考にしながら紙面に筆を走らせ、まったく他のことには意識を向けずに机上政務を黙々とこなしていた昂天は、暫くして顔をあげ、首を巡らせた。
静かにしておくようにと言っておいた真那は、いつの間にか眠っていた。
昂天が仕事をしているのを見ていたのか、肘をついた姿勢が崩れたままの格好で真那はすうすうと穏やかな寝息を立てており、伏せられた長い睫は白い頬に影を落としていた。
「ん、ん…」
ごそごそと身動きをし、奇妙な形で体の下に敷かれていた腕を取り出した真那は小さな声をあげながら体を動かして楽な体勢を探すと、またすやすやと寝息を立てる。
しかしそれでも身にまとった衣類の端が脚の間に挟まって気持ち悪いのか、しきりにごそごそと動く。
それをしばらく動いていた真那だったが、安定できる体勢を見つけたのか、動かなくなった。
そっと近寄って長椅子に腰掛けると、きしりと鳴った椅子に気づいて薄く目が開く。
「てんさま…おしごと、は?」
小さな声が眠そうに問いかけ、あふ、と小さく欠伸を噛む。
上着を脱ぎ、そっとかけてやると真那はごしごしと目尻を擦り、昂天の上着を握り締めた。
「まな、おしごとじゃましてる?」
「いや。てんさまも少し休むよ」
「じゃあ、いてもいい?」
「ああ」
やわらかく細い黒髪を撫でながら言うと、真那は嬉しそうに笑って目を閉じた。
笑っていた口許がゆっくりと小さく開いて、すう、と呼吸が零れる。
その寝息が途切れてしまわないようにそっと動いて真那を腕に抱きこみ、昂天は少しだけ、と目を閉じた。
開け放した窓からは、長椅子で寄り添いあう二人の眠りをそっと包むように、静かな風だけが吹いた。
top : next
コメントを見たい方は下へどうぞ。
しばらくミニ真那と昂天のほのぼのやりとりが続きます…。
そのあとはお得意の修羅場ですよ…!