君がため 25
なけなしの金を懐に、首から胸のあたりに布を巻きつけて隠した男が山を三つ越えた先にある町に来ていた。
歳を取ってからもらった妻との間にできた一人息子がもう五日も前から高熱でうなされており、隣村の薬師を頼って薬を得たものの、それも効かなかった。
よもや息子を失ってしまうのかと悲嘆に暮れていたところに、山を三つ越えた先にある町に時折訪れる薬売りがいて、それがまたよく効く薬を扱っているのだと男が知ったのは、一昨日だった。粗末な家の中をひっくり返し、男の生家がまだ栄えていたころ、父親が道楽で買っていた茶碗を見つけ、すぐに売りに行き、どうにか金を手に入れた。
若い頃は胸を張り、片腕には買った女を抱いたりして歩いていた界隈の端をなぞるように歩き、目を皿のようにして薬売りを探した。
それと思しき薬売りを見つけたのは、町外れの川岸だった。川では子どもが二人、裾をからげて遊んでおり、薬売りはそれを眺めていた。
陽を避けるためか、頭から布をかぶっている姿は男女の判別がつかない。ただ小袖の袖口から覗いた手や、川の流れに浸されている脚は若かった。
「あんた、薬売りか」
薬とだけ書かれた板と、山に入るときに使う竹かごを傍に置き、膝の上に五寸四方ほどのちいさな箱を抱えて座っている背中に声をかけると、ゆっくりと首が巡らされた。
「はい」
相変わらず布で顔がよく見えなかったが、男にはどうでもよかった。重要なのは、この薬売りが、息子を救う薬を売っているかどうかだ。
懐に入れた金を無意識に着物の上から抑えながら、男は薬売りの膝に置かれた箱を見下ろした。
「俺の息子の熱が、もう五日も下がらねえ。なんも食わねえし、食っても吐いちまう。どうにかなる薬はねえか」
「熱は高いんですか」
「ああ、高い」
「それなら……これを一日に二度飲ませてください。三日もすれば治るはずですが、七日は飲ませてください。それとこれは一日に三度、湯に溶かして、三日間飲ませてください。食事がとれるようになっても、薬がある間は飲ませて。滋養があります」
薬売りが膝に抱えていた箱を開けると、そこにはぎっしりと袋が入っていた。二十ほどもある袋の中から芥子粒のような薬を十数粒取り出して紙に包み、更に他の袋から小さな薬包を十ないくらい掴むと、竹かごの中から藁で編まれた小袋を取った。
「間違えないでくださいね、粒が一日に二度、薬包は一日に三度です」
「あ、ああ…」
小袋の中に薬をおさめる薬売りに、男はどうしようかと戸惑いを隠せずにいた。
茶碗を売って金を得たが、少額に過ぎない。ただでさえ薬は高価なものなのに、こんなにも量を買えるわけがない。値段を聞くのもおそろしく、だがそれでも一粒だけでも買わなければと、男は懐から金をとりだした。
「…すまねえが、俺にはこれっぽっちしかねえ。これで買えるだけくれ」
噂が山を三つ越えて届くほどなら、もしかしたら男の持っている全額を合わせても足りないかもしれない。それでも家を出る前に伺い見た息子の青褪めて血の気のない寝顔を思い出した男は、地面に膝をついて頭を下げた。不意に首元から巻いて胸元までを隠す布が取れ、爛れたような痣が、着物のあわせから覗く。それでも構わず、男は地面に頭を擦り付けた。
「足りねえならなんでもいい、これで買える薬をくれ」
唐突に土下座をした男に薬売りは驚いたようだったが、返事はしないまま腰をあげた。
「与助、義兵衛」
薬売りが呼ぶと、水で遊んでいた二人の子どもがばしゃばしゃと水をかき分けながら川からあがってきた。
「もう帰るの、母ちゃん」
「陽が暮れるからね。与助は竹かご、義兵衛は看板を持って」
「はーい」
どうやら薬売りは帰るようだった。
持ち合わせている全額ですら一粒も変えないような薬だったのかと諦めと絶望に呆然としながら男が顔を俯けたままでいると、視界の端に、藁の小袋が置かれた。
「これだけ、いただいていきます。お元気で、重吉さん」
なにが起きたのだと思うよりはやく、団子が一本買える程度の金をそっと取った薬売りの言葉に男が顔をあげると、薬売りが頭からかぶっていた布を取ったところだった。
「…お前は…」
もう二十年以上も前に妖に連れられて姿を消した許婚が、まったく変わらない姿でそこに居た。黒い髪は伸び、首のあたりで結っていたが、少し大きめのくりっとした双眸や優しげな面立ち。男が見たこともないような微笑みを浮かべ、脇に子ども二人を連れてはいるが、紛れもなく愛もないまま手籠めにしようとした許婚だった。
連れ去られたあの夜を境に、男の生活は一変した。
己の身には呪いの証である痣がつき、父親は家に妖が出たと気に病んで床に臥すようになった。気味の悪い屋敷だと女中たちも寄り付かなくなり、あの家は呪い付きだと噂も立って、あっという間に家は没落した。父親が死んで家は廃れ、男はひとりになった。
何度もこんな現実は夢だと信じたかったが、胸に広がった痣が、否がおうにも現実だと思わせた。
歳をとってからようやく自分でいいと言ってくれる女に出会い、夫婦となり、やがて息子が生まれた。
そうして今、死んだと思っていた許婚と再会した。
お前のせいだとぶつけたい文句があった気がするし、それとは反対に、今となっては謝りたいと思う気持ちもあった。だがそれが言葉になりはしなかった。
地面に置かれた小袋を慌てて取り、薬売りから目を離した次の瞬間には、もうその姿はなかった。
まるであの夜のようだった。だがあの夜のように、夢ではなかったしるしに、男の手には藁の小袋があり、地面には少しだけ銭の減った金が散らばっていた。
夕陽に赤く染まりつつある山と川を前に、地面に跪いたまま男は一度深く深く頭を下げると、金を掻き集めて懐に押し込み、更に小袋を大切にしまいこんで、帰途につくべくその場から去った。
それから二度と、男と薬売りが会うことはなかった。
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