君がため 26








「今日、誰かに会ったのか」
 夜も更け、寝てしまったと同時に術も解けて蝦蟇の姿になっている長男の与助を拾い上げた穂摘の背に、志郎の声がかぶさった。落ち着いた声音にはいと頷きながら、穂摘は既に箱に入り、湿った土にぴたりとくっついて眠っている次男の義兵衛の隣に与助を置いた。生まれてから二十年ほどしか経たない幼い子どもたちは人の姿のまま寝ることが出来ないため、こういった場所で寝かせており、更に小さな末子は既に伝丸と名付けているものの、まだ透明な卵から生まれていないため、水を張った小さな壺の中にいた。
 うっすらとまだらが散るちいさな蛙姿の我が子の背を指先で撫でてやりながら、穂摘は落ち着いて答えた。
「重吉さんに会いました」
「……柏木の、重吉か」
「息子さんが熱病とかで…お薬を買いに来ました」
「熱病?」
 ひいやりとした息子の背中はぷくぷくとやわらかく滑らかだ。ピフーと鼻音を立て眠る姿に目尻を和らげながら、弟の義兵衛の背も撫でてやると、心地よさげにプフゥと鼻が鳴った。
「食も細くなってしまったと仰っていたので、滋養の薬と熱さましを処方しました」
「そうか」
 ごりごりと薬研で薬草を擂る志郎はそれきり黙っていたが、子どもたちから離れた穂摘が隣に座り、床に置かれていた薬草をむしって細かくしはじめると、しばらくして薬研車を動かす手を止めた。
 薬研の底に溜まった粉はくすんだ麻のような色合いをしていて、それを穂摘がなんとなく見ていると、薬研車の軸から離れた志郎の手が、あぐらをかいている彼の膝あたりに置かれた。
「老けていただろう」
「はい。俺より三つほど上だったと思います。だから…今幾つですかね、四十過ぎくらいだと思います」
「お前を見て、驚いたはずだ」
「驚いていましたよ。目が丸くなっていました」
 彼が驚いたのも無理はない。
 志郎の嫁になり、穂摘は歳を取らなくなった。既に四十歳ほどになるはずなのに、見目は志郎と出会った十代半ばの頃のままだ。着物の下には二つの性を秘めてはいるものの、少年そのものの容貌は全く変わっていなかった。
 重吉はこのまま老いて、二十数年もしたら死ぬのだろう。だが穂摘は違う。妖の嫁になり、その子を産んだ体の中に流れる気は既に人間ではない。志郎も見た目は二十代半ばだが、生きてきた年数は既に百年を超えている。それと同じように、穂摘もこれから百年二百年と生きるのだ。 
 むっつりと黙り込んでしまった、もともと饒舌ではない夫をちらりと見上げて、穂摘は薬草をむしるのをやめた。そのまま肩のあたりに頭をことりと預ける。もたれた体躯はしっかりとして、揺らぐことがない。
「思っていませんよ」
「…何がだ」
「普通の人間に戻りたいなんて」
「………」
 黙りこくっている志郎の手に自らの手を重ねると、馴染んだ温度が浸み込んでくる。だがすぐにその手は逃げてしまい、代わりに穂摘の肩に回ってきた。
「戻りたいなんて思いません。与助も義兵衛も可愛い。もう半月もすれば、伝丸も孵化します」
 妖の子だが、穂摘にとってはかけがえのない子どもたちだ。与助が川で行方不明になれば濡れ鼠になってでも川をさらって探すし、義兵衛が体調を崩せば水桶を首から下げてその中に水を張り義兵衛をいれ、片時も離さず看病した。まだ孵化していない伝丸も、いつ生まれてくるだろうかと楽しみで仕方ない。
 今も、背後から聞こえるプスゥフスゥと漏れている鼻息が可愛いと思っている。もはや彼らのいない生活は考えられなかった。
 第一、穂摘には子どもたちと同じくらい、離れられない者もいた。
「それに、俺は志郎さんのお嫁さんだから」
 たった一人、最初で最後の恋をした相手は、志郎だけだ。
 彼は妖だったが、後悔はしていないし、これからもきっと昔を偲んだりもしないだろう。
 返ってくる返事はないだろうと穂摘は思った。志郎は表情はあまり変わらないものの、非常に照れ屋だ。今も肩を抱く手のが一瞬強張り、それから少し強めに引き寄せてきた。
 気付けば火皿の明かりが陰って、巨躯に似合わず恥ずかしがり屋の夫からの口づけが、花にでも触れるような繊細さで穂摘の唇を一瞬覆った。
 離れていく唇を目で追いながら、穂摘は目を細めた。
「今が幸せです」
 もう一度、志郎から口づけが落ちてくる。
 人とは違う、ひんやりとした体温のあるこの場所は、幸せの場所だ。
 背後で水瓶から水音がするのを聞きながら伸びあがった穂摘は、お礼を返すべく、自分からした口づけに赤くなっている志郎の唇に口づけをした。
 どちらともなくあふれた微笑みは、妖も人もなく、ただ幸せな笑顔だけだった。








end


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