君がため 24








 巨大蝦蟇を前に微動だにしない穂摘と、それをじっと眺める志郎は、互いに見つめ合っていた。
 埃すら落ちるのを憚るようなしんとした空気を破ったのは、穂摘だった。
「好きです、志郎さん」
 肌に馴染んだ寝床に身を横たえたまま、再度穂摘は告白を口にした。それは紛れもなく本心だった。
「穂摘」
 変わらない告白に狼狽えたのか、巨大蝦蟇はぎしりと床板を軋ませて穂摘に寄ろうとしたが、すぐに逡巡して、その場にとどまった。
「お前はもう、どこに行っても喜ばれる。綺麗だ。俺みたいな醜い者の隣にいるべきじゃない」
「綺麗であろうとなかろうと、どうでもいい。俺は志郎さんの傍にいたいんです」
「だめだ、この村はお前がお前のままでいることを許さない」
「どうしてですか」
 それならば先ほどいた少年はなんなのか。少なくとも人間に見えた。それとも彼も妖の類なのか。どちらにせよ、村へ留まる事が許されないと言われた穂摘は、必死になって志郎に縋ろうとした。目の前の姿がどうあろうと、これが志郎だと言うならば、厭う理由などなかった。
「前に言っただろう。俺はもちろん、お梅さんも妖だ。この村は、妖の隠れ里だ」
「でもさっき、俺の傍にいた人は?」
 どうなのかと詰め寄ろうとすると、志郎はまた影の中に引っ込んだ。ぼんやりとした輪郭だけが闇の中に浮かび上がり、時折火皿からの明かりに、その肌がてらりと光った。
「…人だ。特別に、この村にいることを許されている」
「それなら俺も、許して欲しいです。…迷惑になるようなことはしません。村の隅に住まわせてください」
「だめだ」
「どうしてですか!」
 これまで生きてきて、これほどまでに我を張ったことがあっただろうかと、穂摘は自らの強い口調に驚いてすらいた。
「お前はただの人間だ。言っただろう、さっきいたのは特別な人間だ。お前とは違う」
「どう違うんですか」
 片肘をついて起き上がり、布団を剥ぐと志郎ににじり寄る。巨躯の妖は明らかに動揺し、後ろへ下がろうとしたが、そこには壁があるばかりで、これ以上後退しようがない。
 穂摘の頭など軽々一掴み出来そうな大きな手のひらがずいと迫って、これ以上の接触を拒もうとしているのを感じた穂摘はそこで止まった。間近にはどう見ようとも人間ではない妖だが、やはり恐怖は微塵も感じなかった。
「……お前は、誰にも娶られていない」
「めと…?」
 一瞬志郎が何を言ったのかと、穂摘は目を見張り、そのあと目の前の妖が丁寧に治してくれた瞼は、違和感などなく二度瞬いた。
「ここは妖の里だ。ここで生きていくには、妖とつがいにならないといけない」
「…つがい」
 妖と夫婦にならなければ、村は生きていけないと志郎は言った。それならば、さきほど見た少年は、妖とつがっているのか。小さく呟いたきり黙った穂摘の心を読んだように、志郎の口が動いた。
「この里には、数人だが、人間がいる。皆伴侶がいる。それがしきたりだ」
「しきたり…」
 穂摘のいた村にも、しきたりはあった。西の森には入ってはいけないだとか、山に入るときには祠にお参りしてからだとか、どの村にもしきたりはある。それは村という一個の集団で暮らしていくために必要なものであり、破ることは許されなかった。
「伴侶が居なければ、人間はどうなっても仕方ない。ここには人を食うものだっているし、悪さをする奴だっている」
「でも志郎さんは、俺とお梅さんだけでいさせたりしたじゃないですか」
 穂摘に初めて月のものが来た時、一瞬とは言え、志郎は穂摘から離れていた。それに、お梅とは何度もふたりきりになったことがある。
 それはおかしいだろうと異を唱えると、巨躯の異形は首がどこかわからないが、頭を左右に振った。
「家とそこの川は、俺の域だ。俺の域にいる限り、他の妖は手を出せない。そのかわり、俺の域から出たら、お前はどうされようとも文句は言えない」
「志郎さんの、域…」
 目の前の妖が司る範囲を越えてしまったら、この身がどうなるかわからないと、志郎は言った。もしかすると屠られるかもしれないし、手慰みに殺されてしまうのかもしれない。どうなるかはわからなかったが、よくない事になるという事は、穂摘にもわかった。
「…伴侶は、…妖の伴侶は、妖の一部になる。体は人間だが、なんというか…気が、妖になる。そうすると、村のどこにでも行けるようになる。お前が見た人間は、そういう人間だ」
 ひどく言い辛そうに言葉を綴った志郎は、おもむろに体を屈ませ、床に落ちていたらしい着物をずるりと持ち上げた。そして、一瞬ぶるりと大きく体を震わせた。巨体が大きく揺れたかと思ったら、次の瞬間には、そこには長身の青年が立っていた。無造作に着物を羽織った青年は、ゆっくりとその場に胡坐をかいて座り込んだ。
「さっきも言っただろう。お前はもう、何処でだって生きていける。俺の傍にいたいと思うな」
 穂摘の目の前にいるのは、先ほどまでの蝦蟇姿の志郎ではないが、彼に間違いなかった。
 火がゆらりと揺れるたびに照らされる目前の青年の眼差しは、間違いようもなく彼だった。
 漆黒の眼を見つめながら、穂摘は頑固に首を振った。
「俺は、俺の意志でここにいたいんです」
 すっと伸ばした手を、胡坐をかいた膝の上に置かれている手に重ねると、志郎はびくりと肩を揺らしたようだった。初めて自分から触れた志郎の肌は、懐かしい温度だった。
「志郎さんの姿が醜いと言うなら、俺もそうです。痘痕だらけだと重吉さんにも笑われていました。心が醜いと言うなら、俺もそうです。志郎さんに優しくしてもらって、すごく嬉しかった。この優しさを、俺だけのものにしてしまいたいと考えています。こんな心は、醜くありませんか? それに…」
 おそらく志郎は、妖の姿から人の姿へと変わっても常人とは異なってところどころ染みのようなものがある肌を隠すために、包帯を体中に巻きつけていたのだろう。今穂摘が触れている肌はむき出しで、手のひらが覆いかぶさっているところにも、染みがあった。
 怖がらせないようにと考慮してくれていたのだろうか、嫌われたくないと思っていてくれたのだろうかと穂摘は思った。
「…俺はふたなりです。それでもいいなら…傍に居させてほしいんです」
 隠すまでもなく、既に志郎にはわかっていることだ。
 両親にまで秘されていたことを確認するように口にするのはひどく恐ろしかったが、穂摘は視線を外さずに志郎を見つめた。
 しばらく、音はなにもなかった。
「…ふたなりは」
 ぽつりと呟いた志郎は、大きなてのひらで穂摘の手を覆った。ひいやりと温度の低い手の感触は慣れたもので、それだけで穂摘はほっと胸のあたりのこわばりが解けるのを感じていた。
「…ふたなりは、妖に力を与える神聖なものだ。人でありながら人でなく、神通力にも通ずる。妖の中にはふたなりだからとかどわかして娶る者もいる。だが、俺はお前の心根に惚れたんだ。己が身も省みず、欲しいと思った」
 思いがけない言葉に、穂摘の目にはうっすらと水の膜が張りはじめていた。
 傍にいたいのだと詰め寄ったのは確かに自分の方なのに、想いを寄せているのだと言われると、なぜかひどく落ち着かなかった。
「妖の伴侶になってしまえば、二度と普通の人間に戻ることは出来ない。他の人間との付き合いも薄くなる。それでも…俺の嫁になってくれるか、穂摘」
 ぱたたと音を立てて、目尻からこぼれた雫が畳で弾けたのは、志郎に名前を呼ばれたのと同じ瞬間だった。二粒続けて落ちたそれはじわりと井草の間に浸み込んで消えたが、またすぐ落ちてきた雫が畳を濡らした。
 目の前の人の姿をした妖が治したなめらかな頬を涙で濡らしながら、穂摘は小さく顎を引いた。
「はい…喜んで」
 手を握っていた大きな手のひらがいったん離れて、すぐに穂摘を抱きしめた。人とは違う、それでも自分を受け止めてくれる優しい温度は心地良い。
 妖はおそろしいものなのかもしれないが、この男の傍でなら、きっと幸せになれる。
 火傷を負った時は二度と使い物にならないと悲観した両腕をしっかりと動かして、穂摘は愛しい異形を抱きしめた。











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