君がため 23
目覚めると、幾度か見た覚えのある梁が闇に浮かび上がって見えた。志郎の家の、奥の間の天井だ。家に入ってすぐの土間には誰かいるのか、襖の向こうにはざわめいている気配があった。
どうやら自分は死ななかったようだと、穂摘はひとつ息をついた。志郎の薬は人が死ぬようなものではなかった、そのようなものを渡すような男ではなかったという事に安堵してほっと息が漏れる。すると傍らでもぞりと影が動いた。
「起きたね」
火皿が寄せられたのか、少年の顔が闇にうっすらと浮かんだ。それは志郎でもお梅でもない。誰だろうかと記憶をさっぐっていくと、さっきいた人と異形の群れの中で見た顔だと思い至った。
「まだ口の中はすうすうする?」
「あ…いえ…」
「それならいいや。志郎さん呼ぶから、このままでいてくれよ」
おーい志郎さん、と少年が呼ぶと、今行くと襖の向こうから声が返った。
「それじゃあまた」
名も名乗らず、少年はひらりと手を振ると出て行ってしまった。それと入れ替わりに、まるで小山のような影が部屋に入ってきた。それは天井につくほどの巨体を部屋の隅に押し付けるようにしながら、口を開いた。
「起きたか、穂摘」
闇からそっと染み出すような声は、紛れもなく志郎の声だった。
「…はい」
寝具に体を横たえたまま穂摘が応えを返すと、巨大な影はもぞりもぞりと動いて、ぴたりと止まった。
「なぜあの薬を飲んだ」
「……それは…」
「相手に飲ませるようにと言ったはずだ。死ぬ薬ではないが…昏倒しただろう」
今はもううっすらとした余韻だけが口腔に残り、あの粒を口に含んだ時のような衝撃はない。代わりに、倒れこんだときにでもぶつけたらしく、二の腕のあたりが少し痛んだ。
「お前が害から逃れられるようにと作ったのに、なぜあれを飲んだ」
「…嫌だったからです」
志郎の声は静かなものだが、そこに熾火のような怒りがあるのを穂摘は感じていた。せっかく救った命が軽んじられたのだから無理もないがと思いつつ、穂摘は薬を口腔に投げ入れた時の衝動を口にした。
「もう志郎さんの元には戻れない。かと言って重吉さんに手を出されるのは我慢ならなかった。あの人の手にかかるくらいなら、志郎さんのくれた薬で死にたかったんです」
これほど、目の前の男に惚れていたんだなと穂摘は落ち着いた心持ちで思っていた。
自分の生ではあったが、周りからは疎まれ、将来すらもままならなかった。それが、死ぬ程の思いをして一変した。父母以外からの優しさに触れ、その優しさの傍で生きられたらなどとはかない願いを抱いてみた。しかしそれは叶わず、一転して今度は過剰な執着に晒され、己の身の清廉を奪われかけた。
想いもない男に奪われるくらいなら、いっそ消えてしまおうと思ったのだ。
自分の中にこれほどまで強い感情があったことを、穂摘は知らなかった。
いつの間にか、目じりにたまった雫がこめかみを流れて耳朶を伝い、枕に落ちていた。
「好きなんです、志郎さん」
返事がどうであれ、言っておきたかった。
またここを出て行くように言われ、どうしても離れなくてはいけないことになった時、心残りのないように。
しんと静かな空気を震わせて伝った告白に、志郎はしばらく動かずにいたが、やがてもぞりと動いた。先ほどとは違い、穂摘に少しだけ近寄った。
「前がどうだったかはわからないが、穂摘、お前は美しい」
また志郎が少し、穂摘に近付いた。障子越しの月明かりに巨体が少しずつせり出してくる。
「俺は、醜い」
てりのある肌が、月明かりに浮かび上がっているのを穂摘は見ていた。ぬるりとしていそうな質感は夜の闇の中でもわかるほどだった。
「火傷でぼろぼろのお前を見て、もしかしたらと思った」
徐々に闇から現れた志郎の姿を見上げながら、穂摘は特に驚きもせずに話に耳を傾けていた。
「こんなにぼろぼろな人間なら、醜い俺を好いてくれるかもしれない。目を治さずにいたら、俺の姿を見られずに済む。優しく世話をして、丁寧に扱ったらきっと、俺の姿を見ないままで好いてくれると思ったんだ」
巨体にあわず、志郎の低い声は泣いてしまいそうな震えすらあった。
「でもだめだった。元気になっていくお前が可愛かった。全部治してやりたくなった。目を治してしまったら、俺を見てしまうことはわかっていたのに」
目の治りが遅かったのは、そのせいもあったのかと思い返す。それでも今は前と同じように見えており、不自由もない。自らと葛藤しながらも、志郎は丁寧に目を治してくれた。
「わかっただろう、穂摘。姿も、心も、俺は醜い」
ずるりと、志郎の全貌が闇から姿を現した。
月明かりに浮かぶその巨大な姿は、人の丈を軽く超した蝦蟇蛙だった。
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