裸の背に、冷たい布と温かい布があたっている。
 冷たい布は溶かした雪に濡らした布で、木の根に強か打ち付けた肩甲骨のあたりを冷やしている。温かい布からは、人の体温が伝わって、冷える肌を包んでいた。
 官服を上衣だけ肌蹴た上半身裸の状態で、伊鈴は背後から章延に抱きしめられていた。
 冷やし始めた頃は濡れ布を患部にあてているだけだったが、上半身が抜き身状態なので他の肌が冷えてしまう。それはいけないからと、背中は濡れ布をおさえながら章延が温めてくれ、前の方は布で覆っていた。
 肩甲骨のあたりは案の定熱を持っており、赤く腫れあがっている。冷やしている今も、少し動かすとぎしぎしと痛んだ。
 びょうびょうと吹きすさぶ風の音を聞きながら、伊鈴はぼんやりと小さな焚き火を見ていた。
 考えているのは、さっきの自分の行動だ。
 なぜ、行かないでほしいと懇願したのだろう。
 風雪はひどいが、背を向けあっていれば洞から出ずに済む。そう提案したらよかったのだ。それなのに、傍にいて欲しいとねだった。
 なぜなのか。
「まだ、痛みますか?」
「……いえ、大丈夫です」
 考えこんでいると、背後からの穏やかな声が耳朶に響く。体が少し離され、体温で温もった濡れ布がはがされた。
 先程に比べると波は引いたが、痛みはまだ少しあるし、痺れもある。けれどだいぶ良くなったからと頷いた伊鈴だったが、背中にあてられたものに身を捩らせた。
 痺れと冷えで、はっきりとした感触や、それが持つ温度は曖昧だ。けれどするりと肌を撫でるなめらかな感覚や、そこからじわりと浸み込んでくる温度が、肌を震えさせた。
 これは手のひらだ。
 手袋などの布越しでない、素肌だ。
 しかし、数か月前に不躾極まりなく伊鈴の肌を蹂躙した男の手のひらとは違い、いやな熱さはない。
 かわりに、自分の頬がみるみるうちに赤くなっていくのを感じながら、伊鈴は強く下唇を噛んだ。
 いやらしい。
 背を撫でさする章延の手のひらのことではない。
 触れられただけで、あの行為を思い出す自分がだ。
 布を裂き、股を割り開いてこちらの思惑など知る由もなく無理矢理押し入ってきた男は違う手のひらなのに、粗暴かつ濃厚に施された淫猥な行為を思い出してしまった。
 あの行為は、伊鈴の望んだものではなかった。むしろ厭わしかった。
 それなのに今は、期待している。
 この手のひらが肌を辿ってはくれないかと。
 嫌で嫌で仕方なかったはずのあの行為を、この体に刻みなおしてはくれないだろうかと。
(……あの国で、心を堕としてしまったな)
 淫らがましい期待を抱いてしまう自分を心の中でこれ以上ないほど蔑みながら、しかしその期待を捨てきれずにたかなる鼓動に頬を染めたまま、伊鈴は小さく笑った。
 堕ちたついでだ。抱いてもらえばいいのだ。
 あの忌まわしき袁王は、斉を統べる斉王、斉利勝以外の人間なら誰を相手にしても構わらないと言った。
 それならば、背後にいる男でもいいのだ。彼は斉国の人間だが、斉王ではない。
 斉王を嫌う袁王だ。誰でもいいと言ったが、万一伊鈴が孕んだ時、父親が斉国の人間だと言ってやれば、少しは溜飲が下がるかもしれない。
(そう、袁王を嗤ってやるため)
 こじつけた理由ににじむ悲哀から、伊鈴は目をそむけた。
 そうしてたわめた唇が少しひび割れて痛むのを感じながら、伊鈴はゆっくりと口を開いた。
 冷静を装う頭とは反して、胸は張り裂けそうに忙しなく鼓動を響かせている。
 小さく白い息を吐いて、伊鈴は声を出した。ひっくり返ってしまわないように、努めて平静を装って。
「章延様」
 大丈夫だ。声は震えていない。小さく掠れてもいない。
 揺れる小さな炎を見つめたまま、伊鈴は笑みの形にたわめた唇の隙間から、虚ろ過ぎる願いをこぼした。
「抱いていただけませんか」