おやすみ










「それじゃあ、おやすみ。優威はとなり、パパとママは一階だからな。トイレは二階にあるから。二階のトイレが怖かったら一階のでもいいけど、階段降りるときは、ちゃんと電気つけるんだよ」
 我ながら、少し過保護だろうか。
 そんな事を考えながら、五年前に越してきた一戸建ての二階の一室で、遠野葵は子どもを前に少し早口で声をかけた。
 母親である葵には不安が残るが、どこかうきうきとした様子の子どもは至ってご機嫌で、にこにこと笑いながら枕に小さな頭を沈めている。
「うん、おやすみなさい」
「…うーん…心配だな」
 五歳の誕生日を迎えた今日、あと一ヶ月ほどで小学校に入学なのだしと、葵の二人の子どもにはそれぞれの部屋が与えられた。もともとこちらに越してきた当初から二人にそれぞれ部屋が与えられればと、遠野家の大黒柱である夫の貴之と話はしていたので、葵としても特に異存はなかった。けれど実際に二人がそれぞれ一人ひとり部屋で眠るとなると、心配が積み重なってたまらない。それまでは一階にある和室で四つの布団を敷き、夫婦の間に子ども達が入るかたちで寝ていたのだ。
 どことなく声のトーンを落としてしまいがちになりながら、ベッド脇にしゃがみ込んで楓のやわらかな髪を撫でると、幼い声が笑いを含んで跳ね返ってきた。
「もう、しんぱいじゃないよー、だいじょうぶだよ、かえでひとりでねむれるよ」
「本当に? ドア閉めたら、楓一人だよ?」
「でもおとなりはゆういだもん」
「そうだけどさ…」
 二卵性双生児の兄にあたる優威は、五歳にしては身体が大きい。しかしそれに比例してしっかりしているかと言われれば、母である葵も苦笑しながら首を傾げえないような子どもだ。いつもぼんやりとしており、言葉数も少ない。それに反して楓は体こそ小柄なものの、はきはきとしゃべり、てきぱきと動く子どもだ。その楓が大丈夫と言うのだから大丈夫なのかもしれないが、それでもうだうだと、葵はなかなか楓のベッドから離れられないでいた。
「だいじょうぶだよ、ママ」
「…うん、わかった。怖くなったらすぐにおいで。おやすみ」
「おやすみなさあい」
 小さな手がよしよしとでも言うように額を撫で、幼い仕草に宥められた葵は、自らを鼓舞するように頷いて立ち上がった。
 三月には貴之側の祖父母から机が送られてくるため、その分のスペースを大きくあけている子ども部屋を見渡して窓鍵の確認をしたあと部屋を出る。壁に手を這わせてぱちんと室内灯を消し、廊下から漏れる灯りだけで楓を確認すると、掛け布団を肩までかけた楓は、そろりと手を出してひらひらと振って見せた。
「おやすみ」
 なんだかやっぱり離れがたくてもう一度言ってドアを閉めた葵は、さて、と隣の部屋にも脚を運んだ。
「優威ー…?」
 ドアを開けると、既に暗い部屋の中に置かれたベッドがこんもりとした山を作っている。そろりと足音を忍ばせて近寄ると、既に優威はすうすうと眠っていた。
「…おやすみ」
 一人寝を寂しがるどころか、熟睡されては起こすことも心配することもままならない。布団を掛けなおしてやり、子ども特有の柔らかい髪を撫でて部屋を出る。ひんやりと冬の空気が漂う廊下は寒く、パジャマを纏った身体を自分で抱きながら階下に下りると、ちょうど両手にマグカップを持った貴之と出くわした。
「ゆうとかえは?」
「優威はもう寝てた。楓は大丈夫だって」
「大丈夫、か」
 双子でありながら全くに通わない二人のそれぞれの様子に笑いながら廊下を歩く貴之の後ろについて寝室に向かうと、葵はふうと息をついてベッドに腰掛けた。一週間前に家具屋で購入したベッドは今日届いたばかりで、スプリングの軋みには違和感を覚える。
「早いね、もう五歳だ」
「つい最近までよちよちしてたはずなのにな」
 感慨深げに呟き、膝の上で指を組む。そこに、隣に腰掛けた貴之がマグカップを差し出した。
「ありがとう。…オムツ取れたのだって、初めて立ったのだって、昨日みたいだけどなぁ」
 記憶を掘り起こせば、きちんと成長過程は思い出すことが出来るけれども、その記憶は酷く鮮明で新しく、色あせたり古びたりするにはまだ若すぎる。
 早いなぁと感慨深げに葵が呟くと、その隣に腰掛けた貴之も頷いた。
「首が据わったのは…三ヶ月半くらいだったよね」
「そうだ。寝返りは…楓の方が少し早かったな。自分で転がって、うつ伏せが嫌でよく泣いてた」
「そうそう。優威は六ヶ月前くらいに寝返り打てるようになって…すぐにお座りもしてた」
「先に歯が生えたのも楓だったな。あと、ハイハイも」
「そうなんだよね、楓の方がいつも少しだけ早くて…優威はのんびり成長してる感じだった」
「でも、なんだったっけ、ええと…マンだ」
「それは優威。ママだよーって言ってたのに…なんでマンだったんだろ」
「パパはパンだったしな」
「そうなんだよね。でもたっちしたのは優威の方が早かった」
「ああ、そうだった。楓は…その後だな。楓の『これなあに』は散々だった」
「なんでもかんでも『これなあに?』って、俺もうおかしくてさぁ…教えても、『ふーん』なんだもん」
「あの頃からかもな、楓の口がやたら達者なのは」
「そうだね」
 思い返せば、宝箱をひっくり返したようにいくらでもキラキラと眩く愛しいものが溢れてくる。やがてマグカップを飲み干した葵は、空になったそれをサイドテーブルに置いた。白いカップの隣に、貴之の焦げ茶のカップも並ぶ。
 就寝時、右側は葵の定位置だ。左側に移動した貴之より先に羽根布団の中に滑り込むと、すぐに左側にも人の温もりが入り込んでくる。いつもは貴之との間に優威と楓がいるのだが、今日からはすぐ隣だ。葵が選んで買ってきた濃紺のパジャマの肩が僅かに触れ合う距離が嬉しくて、目だけを少し動かして隣を窺うと、貴之と目が合った。
「………」
 互いに無言で見つめあい、そそくさと視線を外す。けれどとんとぶつかった背中はくっついたままで、思わず笑うと、にゅっと伸びてきた腕が葵を捉えた。
「笑ってるな」
「だって、なんかおかしくて」
「おかしい?」
 くすくすと笑いながら寝返って貴之を見ると、なにがだとばかりに瞬いた双眸と視線があった。
「五年も一緒なのに、今更一緒に寝るだけで恥ずかしくなっちゃうなんてって思ったんだよ」
「今更って言うけどな…気付いてるか、二人きりで寝るの、初めてなんだぞ」
「……そうだっけ。お泊り保育の時とかなかったっけ」
「そうだ。前にゆうとかえのお泊り保育の時は、俺が出張だっただろ」
「そういえば…そっか、初めてかあ」
「初めてだ」
 憮然と言う貴之の腕の中で思い出をめくると、確かにそうだと頷ける。互いに肌をあわせたのは格子越しが初めてだった上、その後は離れ離れ、ようやく再会してからは双子が必ず同じ部屋で寝ていた。
「…あんまり見ないでよ」
「なんでだ」
「恥ずかしい」
「今更だろ」
「貴之さんも今更って言ったじゃん」
「揚げ足取るな」
 双子がいない隙間をぴったりと塞いでしまいながら互いに戯れあってくすくすと笑うが、それもやがては甘やかな雰囲気を纏いはじめる。
 葵の脇を擽っていた手はいつの間にか、細い腰を掴んで引き寄せようとしている。羞恥よりも照れを多分に含んだ葵が思わず俯くと、髪が流れて現れた耳朶に唇が触れた。
「っん…」
「葵…」
 擽ったさにちらりと顔をあげると、じっとこちらを見つめてくる双眸と目が合う。彼の姓になってから既に五年が経ったが、それでも「ああ、このひとが俺の旦那さまなんだ…」などとぼんやりと考えていると、唇が下りてくる。薄く唇を開くと、そろりと塞がった。
「ん……、…はぁ…」
 うっすらと潤んだ視界に映る相手に髪を撫でられ、そろりと目を閉じる。頬に下りてきた口づけに思わず微笑むと、腰を抱いていた手がパジャマの中に滑り込んでくる。大きな手のひらがするりと腰を撫で、そのままパジャマのズボンを下げずに入り込んでくる。もぞりと動くと、やんわりと尻たぶを握られる。
「う、や…貴之さ…」
「いやか?」
「……そういうの…普通、聞く?」
「いやなんだろ?」
 目を開けると、にやにやと珍しく意地の悪い笑みを浮かべた貴之と目を合う。癇癪を起こしたわけではないが、頬のあたりが熱くなるのを感じながらどんと肩のあたりを叩くと楽しげに笑われる。
「悪い悪い」
「…もう」
「いいですか?」
「もう! 聞かないでってば…っ」
「ははっ」
 今度こそ癇癪を起こしてじたばたと暴れると、笑い声をあげた貴之が抱き込んでくる。
「もうやだっ、やらない!」
 抑えながらもくっくっと喉奥で笑われると恥ずかしいやら腹立たしいやらで、仰向けになっていた身体をうつ伏せにして、顔を反対方向へと向けると、それでもまだ笑いながら貴之が背中に圧し掛かってきた。
「葵」
「もうやらない。俺は寝ます。おやすみなさい、パパ」
 すっかり臍を曲げて目まで閉じると、圧し掛かっていた貴之がしばらくもせずにごそりと動き出した。退くのかと薄目を開けて見ると、片手をついて上体を起こした貴之が、そろりと葵のパジャマを捲りあげたところだった。悪戯をするつもりならと、目を閉じて無視を決め込む。しかし手のひらは背中を撫で、肩甲骨の間をくすぐったかと思うと脇のあたりに伸びて、胸を探る。
「………」
 だんまりを決め込んでいると、一時は膨らんでいたものの、今は全く平らになっている胸を手のひらが撫でる。胸の粒に手のひらが触れた一瞬に肌が震えたが、それでも無視を続けると、むき出しの背中にキスが降り始めた。二度、三度までは耐えられたものの、もとがくすぐったがりの葵なので、それが続けられるとびくっと体が震え、思わず忍び笑いが漏れてしまう。
「葵」
「……」
「ママ」
「……」
「葵ちゃん」
「もうっ、くすぐったい…!」
 背中や肩甲骨から辿って脇腹にまでキスされると、もう擽ったくて仕方がない。くすくすと笑いながら首だけ少し捻って上向くと、パジャマをめくりあげて再度肌にキスを落とそうとしていた男と目が合う。
「キスしてもいい?」
「…うん」
 頷くと、腰の辺りにキスより少し強く吸い付かれる。それがまた笑いに繋がり、無視していたことすら忘れて笑い声をあげると、ごろりと転がされて仰向けになる。
「ごめん」
「……許す」
 くすくすと笑いながら謝罪を受け止めると、改めてと言うようにキスが下りてくる。唇が離れた頃には笑いも引っ込んで、じんわりとした熱が互いの視線にこもる。乱れたパジャマのボタンが丁寧に外され、上半身が露になる。浮き出た鎖骨に手のひらが触れてキスが落ち、身動ぎながらも葵が両腕を上げて貴之の首筋に回した瞬間だった。
 階段から、たんたんと裸足が下りてくる音がした。小さな足音は一段一段ゆっくりと降りてくると、ぺたぺたと音を響かせて、まっすぐ寝室へと向かう。漂っていた甘い雰囲気が一変、乱れたパジャマを慌てて整えながら起き上がり、不自然にも二人そろってベッドで座って向かい合った瞬間だった。
「トイレ…」
「優威」
 ごしごしと目を擦りながらドアを開けたのは、楓よりも先に寝た優威だった。よたよたとベッドまで歩み寄ると、スプリングに座り込む父母を眺め、ううと呻く。
「ママ、トイレ…」
「優威、ひとりでトイレ行けるようになったって、ママに言ったよね?」
「うん…」
「二階のトイレ、怖かった?」
「ん…」
「もう…ほらほら、トイレ行くよ」
「ううー…」
 ぐずる優威の手を引いて一階のトイレに向かうべくベッドを降りる。明らかに落胆の色を示して貴之がうな垂れたが、これはもう仕方ない。いっそ行為中でなくてよかったと思いさえしながら優威と連れ立ってトイレに向かう。トイレが済めば優威も自室に戻るだろうと、洗面所で手を洗わせてから階段まで行くと、優威はいやいやと首を振って葵のパジャマの裾に縋った。
「ママと寝る」
「あれ? もう一年生になるんだから、ひとりで寝るって、かえと一緒にお約束しなかったっけ?」
 目線を合わせるためにしゃがみこみ、ぴんと立った寝癖を直してやりながら問うと、優威はでもと細い首を振った。
「でも、ママがさみしいでしょ?」
「うーんと…ママは、その…パパと一緒だから、大丈夫なんだ」
「でも、かえでもパパとねるって」
「楓はもう一人でねんねしたよ?」
「ううん、さっき、パパとねるって」
「ええ?」
 どういうことだと寝室に戻ると、ちょうど貴之が楓を膝に乗せて揺らしているところだった。
「楓まで」
「パパがさみしいかと思ってだってさ」
「パパとママだけは、さみしいでしょ?」
 さも当たり前だとばかりに言うと、楓は父の膝からするりと抜けて母の手を掴み、早く早くとベッドに追い立てる。溜息混じりの笑みを浮かべながらベッドにあがると、葵の隣に楓が寝転ぶ。その隣には優威が既に寝る体勢を整え始めており、苦笑しながら貴之が並んでいた。
「かえではね、さみしくないの。でもね、パパとママだけじゃ、さみしいでしょ? ゆういもいたほうがいいし」
「えー、かえも大丈夫って言ってたよね?」
「いいのー!」
 くすくすと笑って抱きついてくる楓を抱き返しながらちらりと貴之を見ると、肩を竦めたあと、ひらひらと手を招いた。耳だけそちらに向けると、小さな声が囁かれた。
「また、明日な」
 思わず笑みを浮かべてしまいながらぽすんとスプリングに横たわる。気付けば、いつもと同じ状態だ。
「電気消すぞ」
「はーい」
 ぱちん、ぱちんと二度音がして、灯りが消える。しばらく、しんと静けさが満ち、やがてすうすうと小さな寝息が二重に重なって響く。片腕を枕にして横に向き、すっかり寝息を立てている楓の小さな身体に空いた手を置くと、向こう側から伸びてきた大きな手が重なった。
「おやすみ、葵」
「…おやすみなさい、貴之さん」
 貴之は優威を、葵は楓を起こさないように互いにそうっと動いて、ちゅ、と触れるだけのキスをする。今夜は夫婦水入らずとはいかなかったが、まだまだこれからがある。また次に、と思いながらそろりと身を離した途端、くすくすっと耐え切れずに思わずといった笑い声がふたつ零れた。
「パパとママがちゅうした」
「ふふ、あした、ようちえんでせんせいにいっちゃお」
「こら!」
 きゃっきゃと笑う双子を叱る声も威厳など出ず、四人が揃って眠りについたのは日付も変わる頃だった。
 結局双子が一人で自室で寝られるまでには、これから二ヶ月も先だということなど、また、ちょうど一年後には新しい家族に恵まれるなど、互いにお預けをくらった状態の貴之と葵、どちらも知る由もない未来というのは、また別の話。
 ただ夜は静かに、寄り添いあって眠る家族を包んで、明日に向けてそっと更けていくのみだ。














end
















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遠野一家のほのぼの風景を書いてみようと思ったら、なんだかこんなことに。
割と悪ふざけが好きな貴之が書いていて恥ずかしくなりました…


top ■ end