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 カシャリと簡単な機械音を立てて開いた受け取り口から10万円を引き出すと、葵は薄汚れたリュックの中にそれを押し込み、残金ゼロと書かれた明細書をゴミ箱に放り込んだ。
 刑務所に収監されてからも大した利息が付いたわけではない貯金は、リュックに入れたものが全て。本当は三百万ほど残っているはずだったが、依然住んでいたアパートを引き払っていなかったため、銀行からの引き落としで家賃が月々引かれ、結果的に小額しか残らなくなってしまった。これがなくなったら、自分が出所したときにカードを渡してくれた男の金まで余分に減らす事になるのだからと自分に言い聞かせながら、葵は銀行を出た。
 三年間放ったらかしになっていたアパートは引き払ってしまったので、帰る家はない。
 しかし、10万でこの先過ごしていく事は出来ない。
 もし、自分が望んだことが現実になっているのだったら、なおさらだ。
 まだ肌寒い春風が舞う中を体を小さく竦めて歩道を歩きながら、葵は小さく、は、と息を吐いた。




 日々をバイトで過ごしながら初夏を迎えた七月、葵は「ありがとうございました」と言った直後に漂ってきた、カウンターに設置されたチキンの香りに顔を青くした。
「おい伊勢、どうしたよ」
 さっと青ざめた表情に、バイト仲間の阪西が問いかける。
「ちょっ、と、トイレ…」
 悪い、と言いながらトイレに駆け込むと、葵は清潔な洗面所を見るなりげほっと咳き込み、白いその丸みに嘔吐した。
 涙が滲むほど嘔吐して、は、は、と短く息を吐きながら葵はそのままずるずるとしゃがみ込んだ。
 胸が焼けるような吐き気と倦怠感とは逆に、震えるような歓喜が、徐々に胸に染み込んでくる。
「伊勢、大丈夫かぁ?」
「あ…う、ん…」
 ドンドンとドアをたたいてくる阪西に大丈夫だと告げて、葵はよろよろと足元覚束無く立ち上がった。
 吐き気が酷い。
 今日は早退しよう、帰りには病院に行こうと考えながら、葵は下腹を軽く撫ぜた。




 阪西は真っ青になっている葵が早退したいと頼むと、快く引き受けてくれた。
 ふらふらと危なげな足取りでバイト先のコンビニから出た葵は、まっすぐに病院に向かった。
 もしかしてという疑問ではなく、きっと、絶対という自信がある。
 吐き気と倦怠感にじっとりと脂汗をかきながら病院の門をくぐった葵は、その二十分後、通された一室で静かに泣いた。
 三ヶ月だった。




 そこそこに国が負担してくれているとは言っても、それなりに診察費は高い。
 元々薄い財布だったのが、貴重な札を数枚失ってさらに薄くなってしまったことに落胆しながらも、受け取った診断書を何度も見ながら帰宅した葵は、帰り道の一角にあったコンビニに立ち寄って、安いレターセットを買った。
 安いボロアパートにつくと、荷物を置いて、レターセットを開封する。
 もらったばかりのエコー写真を傍に置いて、葵は慣れない仕草で便箋に文字を書き出した。
「…遠野、たか、ゆき、さま…」
 慣れない手紙はなかなかに葵を苦悩させた。手紙など数えるほどしかもらったことがないし、いきなりの押し付けのような手紙なのだ。先に謝罪を書くべきか、それともそんなものは要らないのかすらわからない。
 迷った末に、思うとおりに書くことにした葵は、ゆっくりとペンを走らせた。
「げんきに、してますか…おれ、は…」
 しばらくの文は、それなりに考えながらもすらすらと書けた。
 しかし、六行目の中ほどに掛かったとたん、葵は自分の手が震えていることに気付いた。
 手紙を書いて、遠野に報せるのは悪くない事だと思った。
 しかし、誰の子だと返事が返ってきたら、どうしたらいいのだろう。
 答えはひとつ、遠野の子なのに。
「……ごめん、嘘ついて…」
 まだ膨らみすら見せない薄っぺらい腹に小さく詫びて、葵は嘘を書いた。
 遠野がだまされてくれる事を祈り、そして、気付いてくれるだろうかというかすかな、本当にわずかな願いを込めて。




 半年ほどしか勤めなかったコンビニのバイトだったが、それでも辞めるときは皆葵を惜しんでくれた。
 よくシフトで一緒になった阪西は特に残念がって、産まれたら教えてくれ、これからも仲良くしよう、と言ってくれた。
 七ヶ月目である事、双子である事も手伝って目立つようになった腹を抱えてコンビニを出た葵は、ゆっくりと歩いて散歩の気分を味わいながら、銀行へと向かった。
 これからしばらくは、バイトで得た給料で過ごさなければいけない。
 子どもは二人いるのだ、預けて働くつもりはあるが、せめて五ヶ月までは手元で育てたい。
 これまでの貯蓄である30万を引き落として、財布にしまいながら、葵はふと財布に収まったキャッシュカードに目を落とした。
 遠野のキャッシュカードだ。
 残高は、確か15万ほど残っていた。
「……」
 引き落として使おうと思えば使える。
 しかし、今もし使ってしまったら、遠野に顔向けが出来ない気がした。
 無理を言って抱いてもらい、挙げ句金までもらって、どこまでも甘えている。
 すでに検診のためにと月5000円ずつ、計二万ほど下ろしていたが、これ以上下ろすのは気が引けた。
 一度は引き出しかけたキャッシュカードを財布の奥にねじ込んで、葵はだめだ、と自分に言い聞かせながら銀行を出た。




 日に日に気温が下がる日々が続いた。
 葵は、アパートやマンションに住めば家賃をとられてしまうので、誰も寄り付かない薄汚れた廃墟の一室に住み着いていた。
 以前住んでいた家から持ってきた数枚の毛布の中に埋もれて暖をとり、昨夜から妙にしくしくと痛む腹を休めていた葵は、ふと目が覚めて辺りを見渡した。
 近くの公園の水道で洗濯を終えて、一休みをしようと、前に本屋で買った『妊娠・出産、ひとりでも大丈夫!』と見出しの入った本を読んでいたのだが、いつの間にか眠ってしまっていたらしく気付けば昼をまわっている。
 そろそろ起きなければと考えて体を起こした葵は、時間を確認するために見た腕時計に表示された日付に、あと数日で予定日という事に気付いた。
 あと一週間で生まれるのだと実感しながら毛布から出ると、葵は近くに置いたクーラーボックスを開いた。冷蔵庫がないので食物を入れているのだが開けたボックスのなかに、食品は殆ど入っていなかった。
 もうじき予定日なのだから、出来るだけ早めに買い込んでおいたほうがいいかもしれないと買ってくるものを考えた葵は、使い古したコートを着こんで外へ出た。
 冷えた冬の空気は、むき出しの頬を叩くように凍えさせる。
「さむ…っ」
 ぶるぶるっと震えてから、廃墟からは一番近い商店街に向かう。
 食物だけでなく、赤ん坊を包むためのタオルや衣服、紙オムツは高いから布オムツを買ってこなければと考えながら歩いていた葵は、ふと商店街の入り口にあるポストを見つけた。
 赤い、少し錆びの浮いたポストは遠野宛の手紙を何度か投函したポストだ。
 住所を書いていないので、返事は来ないとわかっていながらも日に日に成長する子どもの様子を記した手紙を書くのは楽しく、遠野に手紙をおくる瞬間は幸せだった。
 産まれたら、一度だけ送ろうかと考えながら歩み寄った葵は、ふと、下腹を締め付けられるような痛みがきたことに体を硬くした。
 覚えのある痛み。
 まさか、と思いながら下腹に手を伸ばすと、再度、ズキ、と痛みが襲う。
 住処にしている廃墟までは、歩いて20分。普段なら近いと感じる場所だが、今の葵にとっては果てしなく遠い場所に感じる。
 このまま倒れてしまえば、誰かが救急車を呼ぶだろう。しかし、出産費用はおろか、入院費用まで払うほど葵に金はない。
 路地裏にでも入って少し休み、痛みが治まるのを待って帰ろうと決めた葵だったが、感覚など殆どおかずに襲ってくる痛みに、ずるずると座り込んだ。
 じわ、となにかが染み出してきて服を濡らすのがわかる。
 異変に気付いた周囲の人々が集まり、「救急車を」「おいどうした」とそれぞれに声をかけてくる。
 このままでは、人通りの多いこんな場所で産まなければならなくなる。
 それだけはいやだ。
 しかし、このままでは―――…
「…伊勢」
 独りで産むなど、やっぱり無理だったのだろうかと混乱で泣きそうになった葵の上に、ふと聞き馴染んだ、けれど一番聞きたかった声が降ってきた。
 まさかと顔をあげると、そこには、会いたいと何度思ったか知れない男の顔があった。




 狭い床に布団を敷いてそのまま寝かせると、下手をすれば夜中に踏んでしまうからと、遠野が取った緊急の措置で、双子は一人ずつ洗濯用のバスケットと、前に衣服をつめていた箱にバスタオルを何枚も敷いた簡易ベッドに眠らせることになった。
 小さな寝息を立てて眠る双子の気配を感じながら、葵は、寝るときおずおずとした手つきで肩を抱いてきたのに、ぐっすり眠るに連れて体を抱き寄せ、腰にまで手を回してきた遠野の胸元に、そっと顔を寄せてみた。
 十ヶ月も前に、牢の柵越しに触れた、他人行儀な温もりはない。
 ずっと得られなかった、自分をしっかり抱いてくれる男の温かさにつつまれて、葵はゆっくりと目を閉じた。
 廃墟中で感じた寒さは、もう何処にも感じなかった。








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出所後の伊勢を、と言ってくださる方が結構いたので書いてみました。
なんていうか…独白ばかりで申し訳ない感じです。


top ■ end