見たこともないほど、美しく磨きこまれた木床だった。倒れこんだ自分の方が汚れていることは明白で、転がされて頬が床につくと、そこはひやりと冷たかった。
「今日から俺が、お前の主だ」
 言われて朔柚が視線だけをあげると、その先には細緻な文様が彫り込まれた玉座が見えた。家具の出来不出来に細かく気を配るような富裕層に生まれたわけではない柚にとっては、少し豪華で、ただ見たこともない上等な木材で造られただけに見える椅子に過ぎないが、それでもきっと平民が一生をかけて稼ぎ出す金でも一脚すら買えないほどのものだという事だけはわかった。
 王族のみが着用を許される黒と金に彩られた民族衣装を纏った男は、雄々しいながらも酷く陰鬱な気配がした。水気がないわけではないようだが艶のない黒い髪と仄暗い光を湛える黒い眸をいだいている相貌は整っていたが、その表情に彩りはなく、敢えて言うなら、衣装や髪、瞳と同じ色合いだった。
 脚を組んで玉座に腰掛けていた男は衣装につつまれてなおわかる逞しい体を僅かに前かがみにして立ち上がると、悠然とした長身からなる長い脚を繰り出し、無様にも床に転がったままの柚に歩み寄った。
「そして、お前は今日から俺のものだ」
 長身がかがみ、覆いかぶさるように影が柚の視界を薄暗く染める。武骨な指が伸び、柚の頬から顎にかけてをなぞり、なだらかな曲線を描いて、やがてその指先を首から鎖骨へ、胸へ、やがては腹、腿へと流していく。そうして薄く骨の浮く細い足首へと到達した手は、そのまま無遠慮にその細い関節を掴み、両腕を背後で縛られているせいで思うように身動きの取れない柚の無茶な体勢にも気を配らずに片脚を吊り上げた。
「…やめっ…なに、す…っ」
 静寂の落ちる謁見の間に、柚の声だけが響く。
 左右の壁沿いには重臣と思しき官が数名控えていたが、柚が運ばれてきてからは、一切の言動がなく、まるで人形のように突っ立っていた。それでも他人の居る前で下着すらつけていない下肢を晒されることに抵抗を示して柚が体を捻ると、玩具を弄るような手つきで、男の手が無理矢理開かされた脚の間に忍び込んだ。
「い…ッ」
 まさぐるように遮るもののない股間を手のひらで無遠慮に触れた男は、やがてもせずににやりと口角をあげた。
「…ほんとうに…両性だな。いいな、俺は運がいい、いい買い物をした」
 実に嬉しそうに言いながら、男は柚の股間に慎ましやかに備わったふたつの性をいとおしむように、ざらりとした指先で撫でた。
「お前はいい声をしている。俺のために…たくさん啼いてくれ」
 掴まれていた足首が無造作に放られ、脚が閉じられる。慌てて不自由な身体ながら身を縮こめた柚の頬を、そろりそろりと男の指が触れる。そして、男はくつくつと喉を鳴らして笑い始めた。
 黒と金に彩られた衣装を着た男がしゃがみ込んでいる姿は、まるで混沌の塊のように見えた。そして、その連想は間違っていないのだと、一瞬脳裏に閃いた他愛もない噂を思い出した柚は、響く笑いに眉を寄せて、目の前の男を見上げた。
 父王を弑逆して玉座を奪った現と噂される珪国十二代王、その人こそが、眼前の狂気の男だった。


(中略)



 中天を過ぎた月を、薄く引き伸ばした綿のような雲がぼんやりと隠す。翳った書面をついと火皿に近付けて紙面を明るくした和秦は、深いため息を吐いた。
「外政司長の寛央陽殿、農政司長の黄鋳卓殿、参謀次長の葛椎寒殿、財務司次長の梁虔殿……この四方が、謀反を企んでいるようです」
「……それは確かか」
 人の口を伝わってひそやかに広まりつつある噂を調べ上げてまとめた和秦は、既に夜も更けた深夜、環珪宮の政務室を訪れていた。
 広い室内に置いた灯りは小さな火皿ひとつのみで、そのあたりだけがぼんやりとした明かりに包まれ、部屋の隅などは夜陰に染まるような、そんな暗い夜だった。
 夜更けに訪うと女官づてに文を渡していたためか、和秦が訪れた時、昂稀は政務室にいた。相変わらず文机からそれほど離れていない場所には巨大な鳥籠が置かれており、中に設置された長椅子には、昂稀が耽溺している小鳥が丸まっている。
 気まぐれに顔を出す月の明かりは心許なく、久しぶりに見る部屋の様相はほとんどわからない。籠の中の柚が眠っているのか、眼を閉じているだけなのか、それともすでに鼓動など止まってしまっているのかは定かではなかったが、足音に反応したのか、むき出しの細い肩が一瞬ぴくりと震えたことに和秦は安堵していた。
 眠っている柚を起こさないよう、声を潜めながら和秦は頷いた。
「はい」
「後ろ盾はいるのか」
「そちらはまだ特定は出来ていませんが……資金源は外政司長の寛央陽殿の生家である反物問屋のようです」
「反物問屋達から嘆願書が来ていたが、そこと繋がっているわけか…。なるほど、外政司長ならば、関税もどうとでも出来るな。……俺の目さえ誤魔化せれば」
「斉では今現在、絹の値が急落しているそうです。それを買い占めているとの噂です」
「斉か…」
「んん……」
 呟いた昂稀の声に、小さな寝言が重なった。和秦が籠を見やると、雲の切れ間から差し込んだ月光に照らされた柚が、白い瞼を薄く開いたところだった。
「寝ていろ、柚」
 窓際の遮光布を引きながら昂稀が告げると、柚は頷くように瞼を閉じた。