湿った風が頬から首筋をじっとりと撫で上げて、そのまま背中のあたりでわだかまっているような、そんな季節だった。
 梅雨は明けたと昨夜見たニュースで報じてはいたが、だからといて湿気がさっぱりなくなるわけでもない。
 一日一日の微細な変化を重ねて季節は移ろっていく。
 そして今の時期は、一日一日と暑さを増していく。
 初夏だった。
 構内も涼しいわけではなかったが、改札口をくぐって外に出るなり押し寄せてきた熱気に眉をしかめた青崎祐吾は、電車内で潰されないようにするために胸側に回していたメッセンジャーバッグを背後に回した。
 ずしりと重いうえ、普通のメッセンジャーバッグと違ってふくらんでいるのは、中にカメラの機材が入っているためだ。
 肩甲骨のあたりをもぞりとさせてバッグがしっくりと肩に馴染むと、尻ポケットに入れていたスマートフォンを取り出した。フリックとタッチを繰り返すたびに目まぐるしく変化する液晶にやがて映ったのは、今から向かう芸能事務所までの地図だ。
 明日から祐吾はカメラマンとして、とある芸能事務所に所属することになる。本来ならばスタジオに所属したり、フリーで自ら事務所を立ち上げたりするのが普通なのだろうが、祐吾は違っていた。
 厳密に言えば、最近までは違っていなかった。
 まだ子どもだった祐吾の人生に大きな指標が立ったのは、小学生の臨海学校だった。親に買ってもらったインスタントカメラが、全てを変えた。
 千円にも満たない簡易カメラではあったが、自分でファインダーを覗き、選んだモノを撮影することに楽しみを覚えた。
 中学生の頃は親のデジタルカメラを借りて、とにかく興味を引くもの全てを撮った。
 その後地元の高校に入学したが写真部はなく、代わりに新聞部に入って、写真係を三年間務めた。
 卒業後は専門学校に行くためにカメラスタジオでのアルバイトしながら二年間で金を貯め、どうにか自分で工面した金と、親からの助けを少し借りて、専門学校に進んだ。カメラスタジオでのアルバイトは続けていて、卒業後はここで働きたいとも思っていた。そして卒業したのが、今年の三月。アルバイト先からは既に内定をもらっていたので、特に就職活動を活発にすることもなく、実にスムーズに四月から就職した。
 けれど、それは二ヶ月しかもたなかった。
 親会社が倒産し、下請けだったスタジオもあっという間に共倒れした。四年もアルバイトとして馴染んだスタジオは、二ヶ月を名目上の試用期間として過ごした後、あれよあれよという間になくなってしまった。
 スタジオに勤めていたスタッフたちは伝手を頼って他のスタジオや芸能事務所に転職したり、しばらくは他のバイトで食いつないでいく道を選び、全員が困惑と驚愕を抱えながら散り散りになっていった。もちろん祐吾もその一人だった。
 そうして初めての給料をもらった月に、まさか会社が倒産するなんてと呆然としてからひと月。
 就職活動をしなければならないのはわかっていたが、これからと意気込んでいた気持ちを挫かれたのは大きかった。家で燻り、カメラを片手にふらりと出かけては写真を撮る。けれどこれからの不安や、迷いを抱えての撮影は、どこか面白くなかった。
 すべてに行き詰っているような気さえしてふさぎ込んでいたが、そこへ飛び込んできたのが、小さな芸能事務所を経営している叔母からの誘いだった。
「雑務の子が先月辞めちゃって、人手不足なの。それにうちは弱小だから、カメラマンも外注するより所属してくれてた方がいいし。暇ならあんた、うちに来なさいよ」
 そう言われてどうしようかとも思ったが、断る理由もない。就職活動をせずに済むのはありがたいという甘えた考えはあったが、求められているのならそれでいいかと頷いた。なにより、カメラに触ることが仕事になるのなら、ファインダーの向こうを覗くことを生業に出来るのなら、それ以上に嬉しいことはない。そういうわけで、祐吾は叔母の経営する芸能事務所にスタッフとして所属することになり、明日からの出勤に向けて挨拶をするべく、液晶に映し出されるルートを確認していた。
 事務所自体には初めて行くが、地図上で見た限りは、そう離れてもいない。看板も出ていると叔母からは前もって言われており、それなら行き過ぎることもないだろうと歩き出した祐吾は、しばらくも歩かないうち、それぞれに行き交う人の中にふと引き寄せられるように視線を一点で留めた。
 なにか意識を引くような騒ぎがあったり、奇抜なものがあったわけではない。ただ、視界の端を何気なく過ぎた景色のなかに、ふと気になるものがあった。
 それは、ファストフード店の傍に座った人影だった。しゃがみ込んで、行き交う人々をぼんやりと眺めている。おそらくは、十代前半頃の少年だった。
(…男、だよな…?)
 なめらかな曲線を描く頬や、焦点の定まっていないような、どこか眠たげな眼が性差を曖昧にさせる。尻を地面につけて膝を抱えている姿は、少年とも少女ともつかない。ただ、見たこともないほど整った顔をしていた。
 小作りな顔の周りにぱさぱさと散る薄い色の髪は金色とも茶色ともつかない色だったが、根本は濃茶だ。染めているようだったが、色素の薄い顔立ちによく似合っていた。どこを見ているのかわからない双眸の色まではわからなかったが、猫のような眦をしているのはわかる。長いまつげが影を落とす頬は、夏の陽射しには痛々しいほど白かった。
 まるで家猫だった白い猫が街中に迷い込んで、アスファルトに影を落としているようだ。
 誰かを待っているのか、誰かを探しているのか。そんな風情は、人であふれた場所にいながらどこまでも孤独な様子で、祐吾の独占欲を掻きむしる。
 この、ありふれた光景の中に潜む不思議な雰囲気と一瞬を、映像として捉えておきたい。
 許可を取って、一枚お願いしてみようか。だが時間があまりない。名刺もないし、けれど撮りたい一瞬が今ここにある。
 なにかいい案はと思いながらメッセンジャーバッグを探り、愛用のカメラを引きずり出す。まずは、普段撮っている写真を見せて、いかがわしい用途などに使いはしないこと、あくまで私用であることを伝えよう。そう思いながらカメラのベルトを首にかけるために、一秒か二秒、その程度目を離した。
 すると、
「あれ…」
 先ほどまでファストフード店の軒先に小さな尻を落ち着けていた人影は消えていた。慌ててその場に歩み寄って辺りを見渡すも、縦横無尽に行き交う人の波の中に、あのほっそりとした体は見つからない。
 別段彼のいた場所がすっぽりと彼の形に抜けているわけではないのに、先ほどまでその姿があった軒先は、どこか空虚に見える。
 もう一度あたりを見渡して、祐吾は諦めてメッセンジャーバッグにカメラをしまった。
「……仕方ねえよな」
 あの一瞬を逃したのは残念だったが、名前も素性も知らない相手だ。何千万という人に溢れたこの地での再会など、無いに等しい。
 いつ夜空を横切って行くかわからない流れ星を撮影できなかったようなもんだと自分に言い聞かせて、祐吾はマップ画面のままになっているスマートフォンをちらりと見た。
 液晶の上部に表示された時刻は、約束の時間まで、十五分を切ったところだった。





(中略)






 祐吾は、微睡みに浸ろうとしている綺麗な生き物へ声を投げた。
「なあ、スイ」
 眠たげな双眸が、それでも祐吾を捕らえる。ゆるやかなカーブを描く類い稀な造形をした双眸が見てきた世界を、祐吾はこれから変えていく。
 まだ出会ってひと月も経たないが、きっとそうなるのだと確信があった。
 それはまるで、今だと感じた時にシャッターを切る時の気分に似ていた。心が逸って体が押され、自然と指先がボタンを押す時のような、妙な焦燥感と、少しの快感。それが、「今だ」と祐吾になにかを告げていた。
「俺、お前を撮るよ。そのままのお前も、作られたお前も、全部撮る」
 上手い言葉は言えなかったが、スイは微笑んでいた。
 理解しているのか、いないのか、薄く開いた唇が声なく呟き、ころりとくぐもった音だけが、祐吾の耳を撫でた。