金魚草 3





   
「ね、しこ…さ、ま…」
「どうした、紀憂」
 外では朱妃と愛称され、親しい人間の間では紀憂と呼ばれている金魚が紫電宮に来てから二年。
 一時は不穏な空気に包まれていた紫電宮だが、今では元の、紀憂が来てからかもし出されるようになった親しみやすい雰囲気になっている。
 その中心にある政務室で、紀憂は政務に勤しむ史昂の傍らに寄り添っていた。
 特にこれといってする仕事のない紀憂は、若君お抱えの舞姫、若しくは近い将来史昂の側室、あわよくば正妃になる寵姫と言われていたが、実際は史昂の傍で簡単な手伝いをしたりしている。
「これ、も、すこし…いれ、てくだ…い」
 紫電宮に来たばかりの頃は一言も喋れなかった紀憂だが、今では多少の声は出せる。未だ途切れ途切れで声量は僅か、慣れない人とは喋れないほど言葉が不自由ではあるが、常に寄り添っている史昂とでは、きちんと意思の疎通が出来る。
 紅の飾り紐に通した鈴をつけた細い手首があがって、輸出入の予算案をしたためていた筆の先を指差したのを見て、史昂はうんと唸った。
「だがな…芋は珪国でも作っているだろう。輸出の方を多くしても大丈夫だと思うが」
「でも、芋、は、ほぞ、ん、ききます…きき、ん、に、そな…て」
「飢饉はそろそろ起こりそうか」
 言われて出納に関する資料を探し出そうと引き出しにかけられた史昂の手に、ぱさりと紙の束が置かれる。
 見ると、紀憂の膝に幾束かの資料が乗せられていて、どうやらそれを基準にした意見だったらしい。
「まったく準備がいいな…」
 これ以上に有能な秘書はいないと苦笑しながら頭を撫でやると、紀憂は嬉しげに笑んだ。
 ささやかな微笑みと、押し付けてくるわけでなく、そっと寄り添うだけのやわらかな体温。
 それを感じながら、史昂は近々思うようになっていた。
 この温もりを、永遠に自分のものだけにしたいと。





 紀憂は、史昂がいない時は大抵紫電宮を歩き回ったり本殿に遊びに行ったりする。
 紫電宮でも女官と立ち話をしたり、庭に咲いた花を眺めたり、史昂からもらった金魚を鑑賞したりするが、政務などで史昂が居ないさいは、本殿に向かう。
 本殿では王である昂稀と王妃である柚に呼ばれて三人でお茶を飲みながら他愛ない話をしたり、無邪気な様子で懐いてくる柚空と真那と一緒に双六をしたり、散歩をしたりして一日を過ごす。
 その日も、柚に呼ばれてお昼にお茶を飲みに本殿へと赴いていた紀憂は、戻って夕食を終えても、史昂が寝室に戻ってこない事に眉を寄せた。
 普段史昂は遅くても水時計での戌の前刻(午後九時)には政務を終えて自室に戻ってきて、湯浴み、夕食を終えてから寝室に来る。
 それまでの間、紀憂は湯浴みをしたり本を読んだりして過ごす。
 しかし、その日の夜は、水時計が十二時を回っても史昂は戻ってこず、広い寝台の上で、もう十何度目かの寝返りを繰り返してから、史昂は部屋に戻ってきた。
「起きてたか…悪いな、…さあ、寝るか」
 僅かに疲れたような顔をして史昂は笑うと、政務用の服を脱ぎ捨てて部屋着に着替えた。
 脱ぎ捨てられた、黒と金で刺繍の施された政務用の着替えを取って、女官に渡しながら、紀憂は眉をひそめた。
 甘い、鼻をつくような強い匂いが政務着から香ったからだ。
 史昂は香をあまり好まなので、史昂のものではない。
 誰かとの会食でついたのかとも思ったが、大抵の官吏は男で、甘ったるい香をつけることは考えにくい。
 どこか、花街にでも赴いていたのだろうかと思いながら服を女官に渡して振り返ると、既に寝台に入った史昂が自分の腕をまくらにしながら、ぼんやりとしていた。
 一度仲違いをした際に紀憂は他の部屋を使わされていたが、その件を乗り越えてからは、元のように史昂と一緒に寝台で眠っている。なので、寝台の空いた隙間に紀憂が体を滑り込ませると、史昂は当たり前のように紀憂を抱き寄せた。
 嗅ぎなれた史昂の匂いと一緒に漂ってくる、甘い匂い。
「し…さま…」
「なんだ?」
「………なん…も、な…い」
「そうか…」
 言葉を切った紀憂を抱いて、史昂はそのまま眠りに落ちていった。
 温かく力強い腕の中で、紀憂は知らない匂いに包まれて、ごそりと身じろいだ。
 感じたことのない不快感が、膨らむ事を知らないように強情に平らなままの胸をぐるぐると回っていた。




「おや、紀憂様。どうしたんですか」
 昼過ぎ、会議があるからと史昂が政務室を出てしまってから一人になった紀憂は、史昂がお前に似ているといいながら植えさせた金魚草を愛でながら、ぼんやりと中庭にいた。
 声をかけられて振り返ると、史昂の親友であり、側近の桓慶がいた。
 普段は親衛隊長として史昂の傍を守る側近中の側近である桓慶は、公務の際は大抵傍に控えている。
 それが今ここにいるという事は、史昂は公務の時間ではないという事だ。
 しかし、今はまだ昼。公務の時間である。
「かん、け…さま、しこう…さま、は?」
 首だけ振り返らせていたのを、体を捩って体の全面を向けて紀憂が問いかけると、律儀にも御前に失礼しますと声をかけて庭へ降りてきた桓慶は、ああ、と声をあげた。
「若君でしたら…ええと、外へ視察に」
「かん…さま、は、いかない、の?」
 外だろうが内だろうが、公務時間内なら桓慶が付くのは必ずだ。
 首を傾げた紀憂に傅くように目の前に片膝をついて紀憂を見上げた頑強な体を持つ側近は、日によく焼けた、心根の真っ直ぐさが顕れたような人好きのする容貌を一瞬きょとんとさせ、次には慌てたように愛想笑いを浮かべた。
「き、紀憂様の護衛にと、私は宮に残る事になったんです。お暇でしたら双六でもしましょうか、紀憂様。相手になりますよ」
「……うん」
 隠し事には疎い紀憂だが、隠す事に不慣れで、誠実の塊のような桓慶の態度にはすぐ気付いてしまう。
 自分にだけ知らされないもやもや感と、数日前に匂った甘い匂いが不思議と合わさる。紀憂は早速双六盤と駒を運んできた桓慶に渡された赤い花を模った駒を見つめて小さく息を吐いた。





「紀憂、紹介したい者がいる。今、大丈夫か」
 桓慶との双六を夕刻までしたあと、一人で夕食をとって寝室で本を読んでいた紀憂は、寝室に入ってくるなりそう言った史昂に目を丸くした。
 既に時間は十時を過ぎ、夕食を終えているどころか湯浴みだって済ませている。当然、宮中をふらふらと出歩けるようなまともな格好をしているわけでなく、薄い寝間着をまとっているだけの姿だ。
「いま、で、すか?」
「ああ、今だ。寝間着姿なら、敷布を被っていればいい」
「え、あ、ぁ…」
 慌てて紀憂が敷布を引き寄せて肩にかけると、狙いすましたように寝室の扉が開いた。
「あら、紀憂さまは寝間着でしたのね」
「勝手に寝室を開けるな、伊杏」
「怒らなくてもいいじゃない」
 扉を細い指で押し開けたのは、寝間着とは程遠い、きれいに整えられた煌びやかな衣装を身にまとった少女だった。少女とはいえ、年の頃は、現在16の紀憂よりひとつかふたつ上といったところだ。どちらかと言うと、女性と言ったほうがいいかもしれない。
 酷く人馴れした態度で笑いかけてくると、派手な衣装に身を包んだ彼女はしなやかな足取りで寝台まで近づいた。
「初めまして。内政司長、了曳然(リョウ・エイゼン)の娘の伊杏(イアン)と申します。よろしくお願いします」
 男とも女ともつかない性のせいか未だに頑固に平らなままの胸や、あまり凸凹のない紀憂と違い、豊満な体を煌びやかな衣に包んだ伊杏は、紅を刷いた唇をたわませて微笑を浮かべ、しなやかな腰を折って頭を下げた。
 甘い香りが鼻腔をくすぐる。
(………史昂さまについてた匂い…)
 ぼんやりとそう思っていると、あの、と声がかかった。
「お名前をお伺いしたいのですが…下々にはお教えできません?」
「あ、いい、え…きゆ、です」
「きゆ? どういう字を書くんですの?」
「えと…」
 紀憂はまともな教育を受けていないので、自分の名前を書けはするも、それを他の字に当てて、ということになると、わからないと言うしかない。
 口ごもった紀憂の頭を、傍で成り行きを見ていた史昂が撫でた。
「紀行の紀に、憂いの憂。いい名だ」
「しこ…さま…」
 紀憂の腰掛けた寝台に腰をおろした史昂は伊杏が見ているにもかかわらず手のひらで紀憂の髪を弄り、伊杏を見ない。
 いいのだろうかと困惑しながら紀憂が視線をあげると、口をたわめて伊杏が口を開いた。
「…紀憂さま、ですのね。おいくつです?」
「じゅう、ろく、です」
「そうですの」
 長い睫にふちどられた瞳が、簡素な寝間着に包まれた紀憂を、それこそ足の爪の先から頭のてっぺんまでなぞるように見やる。
 笑むようにうっすらと細められた瞳が、実はまったく微笑みの形になっていないことに気付きながら紀憂がごくりと唾を飲むと、彼女はふふ、と小さく笑んだ。
「そろそろお時間ですわね、お子様はお休みの時間だわ。史昂様、紀憂さまにはお休みしてもらって、私達は庭を散歩しません?」
「………ああ」
「しこ、う、さま…?」
 本来なら、史昂も休む時間だ。
(明日も会議がある。お休みしていただかないと…)
 いい加減夜も遅い。早く休ませなければ、明日の公務にも支障が出るのではと懸念して紀憂が見上げると、しかし史昂は「先に休め」と紀憂の頬をひと撫でし、伊杏と連れ立って部屋を出て行ってしまった。
 ひとり残された紀憂は、二人が消えた扉を、ぼんやりと見るしかなかった。




 
 結局、昨夜伊杏と連れ立って寝室を出て行った史昂は、帰ってこなかった。
 朝起きた紀憂は、戻ってきたら邪魔にならないようにと端に寄っていた自分の体の脇に空いた空白に、小さくため息を零して朝食に臨んだ。
 自分でもわかるほど落ち込んでいるせいか、食欲がない。
 朝から青い顔をして、ろくに朝食も取れずにうなだれてしまった紀憂を心配した女官たちは、昼食には卵の粥を少量運んできたが、それすら食べきれず、白湯を少し飲んで下げてもらった。
 季節の変わり目なので、風邪でも引いたのだろうか。
 それならば史昂に移す前に直そうと思いながら寝室でぼんやりとしていると、ふと、コンコン、と寝室の扉が叩かれた。
 昼過ぎとはいえ、まだ公務には時間があるので、史昂や桓慶ではないはずだ。様子を見に来た女官か、それとも遊びに来た柚空と真那、もしくは紀憂の体調が優れないと聞いて飛んできた、心配性の柚だろうかと思いながらどうぞ、と言うと、キイ、と扉が開いて、小さな友人たちが姿を現した。
「紀憂さま、お加減が悪いって本当ですか」
「病気? 大丈夫?」
 籠の柄を仲良く二人で持った柚空と真那は、お静かにと女官に注意されながら紀憂に駆け寄ると、心底心配そうな顔で寝台で上半身だけを起こした紀憂を見上げた。
「ん…だい、じょうぶ…だよ」
 軽い吐き気と熱っぽさはあるが、幼い二人を心配させるほどではない。
 大丈夫だと小さく笑って交互に頭を撫でると、小さな友人たちは安心したように笑った。
「あのね、あのね、紀憂さまがお元気になるようにって、柚空と一緒に菓子を焼いたんです」
「初めてだけど、上手く出来たよ。母上も喜んでくれたの! 食べて食べて」
 紀憂の笑みに安心したのか、ふたりは思い出したように、持っていた籠を寝台の傍の卓子に乗せた。
 白い布が被さっているので中身は窺えなかったが、本人たちいわく、焼き菓子らしい。
 食欲もなければ腹も減っていないが、わざわざ作り、しかも同じ王宮内でも徒歩で15分は歩く紫電宮まで来てくれたのだ、食べないわけにはいかない。
 しかし、ひとつくらいなら大丈夫だろうと踏んで白い布をあげたとたん、紀憂はただでさえ青かった表情を一気に真っ青にし、口元を抑えた。
 甘い焼き菓子の香り。
 普段なら喜んで口に運んだはずなのに、甘い香りが鼻腔をくすぐるだけで酷い吐き気が胸をせり上がってくる。
 口を押さえたきり、真っ青になって俯いてしまった紀憂に、幼い二人も異常を感じ取ったらしく、あっと小さい声を上げると、忙しなく扉に走った。
「誰か来て、紀憂さまが…!」
 泣きそうな真那の声を聞きながら、紀憂は上がってきた吐き気に耐えられず、意識を落とした。











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