慈しみの花 9
昂稀から、真那か柚空の嵐への輿入れの話を聞いてから四日目の晩。
政務を終え、湯を浴びてからひとり自室で書を捲っていた昂天は、ふと近づいてきた足音に顔をあげた。
小さな足音は一定の音程で近づき、扉の前で止まる。
既に月が中天を過ぎた時刻に昂天の宮に訪れるためには、宮の入り口にいるはずの憲兵からの許可が必要だ。
母である柚は早寝早起きなので、兄の史昂か父の昂稀だろうと踏んで書を閉じると、コンコンと扉が鳴った。
「……夜分遅くに申し訳ありません。真那です」
丁寧に名を告げたのは史昂でもなければ昂稀でもなく、ましてや沙音宮にある自室で熟睡しているであろう柚でもなかった。
思ってもいなかった養子の来訪に昂天が慌てて長椅子から立ち、扉を開くと、そこには薄い寝巻きを着た真那が立っていた。いつもは結っている髪が肩に落ちており、結んでいた跡も残っていないのは湯を使ったからだろうかと思いながら見下ろすと、黒い双眸が昂天を見上げ、それからゆっくりと睫が降りて、顔ごと伏せられた。
「遅くに申し訳ありません。おやすみになられるところでしたか?」
「いや、書を読んでいた。どうした、こんな時刻に」
入り口に立たせたままでは、湯上りの体を冷やしてしまう。長椅子へと案内し、なにかないかと室内を見渡した昂天は、壁にかけてあった上衣を手にとり、それを真那の小さな肩にかけた。
明らかな肩幅の違いから、すぐに滑り落ちてしまいそうになる上衣を肩にかけなおしながら、真那はごく小さな声でありがとうございますと言った。
そして、黙った。
「―――……」
元々そう口喧しく喋る性質ではないのは、昂天も真那も同じだ。しかし違和感のある静けさに、昂天は意味もなく口を開いた。
「こ、琴は、どうだ」
「琴は…はい、柚様に教えていただいてます」
「そうか。槍は」
「剣と間合いが違うので手間取ってます。でも楽しいです」
「そうか。………」
言葉が続かない。
いつもならば他の事に話題が及んだり、会話の内容を更に深くしたりして互いに楽しむのだが、今日はそれが上手くいかなかった。
つい黙ってしまいながら昂天が内心焦れていると、僅かにうつむき加減でいた真那がゆっくりと顔をあげた。
「嵐国は…どのような国ですか?」
「…真那」
問いに昂天が低く名を呼ぶと、真那はすっと立ち上がり、室の壁に貼ってある地図に近付いた。
地図には、珪、斉、嵐、陶、環、祐の六国からなる大陸と、少し上方に遥が描かれている。琴を弾くこともある細い指を珪に置き、山脈を辿って嵐まで引っ張った真那は、剣の柄を握りなれた手のひらを嵐に置いた。
向けられたままの細い背を見ながら、昂天は長椅子から立ち上がらないまま口を開いた。
「肥沃な国土のある、温暖な国だ。米作りが盛んで…秋は国中が稲穂で黄金になる」
「人々はどのような方々ですか」
「温厚で真面目な民が多い。もちろん異なる民もいるが、大多数は温厚で安穏、真面目だ」
温厚を絵に描いたような穏やかな笑顔と、のんびりとした雰囲気、そして真面目な性格。それが嵐国の民の性質であり、また嵐王の人となりだ。
箇条書きにされたものを読むように淡々と昂天が述べると、真那は地図に載った嵐の文字を手のひらで撫でながら声だけを投げて寄越した。
「王は…嵐王はどのような方ですか」
「…嵐王は」
嵐というよりは快晴を思わせる嵐国十五代王嵐愁栄は、大きな男だ。それは縦には六尺以上、横も太いというわけではないが厚みのある巨体を指している言葉であり、そして、まるで大らかな空や、嵐国に広がる草原のようと評されるその人柄を表している言葉でもある。
今までに五回、昂天は嵐王と会った。最近あったのは昨年で、相変わらず熊のような巨体を屈めて「お久しぶりです、昂天殿。お元気でしたか」と笑って大きな手を差し出してきたのを覚えている。
「嵐王は、大らかで優しい方だ。歳は俺より下で…李昂と同い年。お前もあった事があるはずだ。二回くらいなら」
「昨年は熱で寝込んでおりましたし、確か…そうです、五年前は遥国へ行っておりましたので、拝顔してません」
「言われてみれば…そうだな。大きいぞ、嵐王は。小山のような方だ」
「小山……」
呟きながらゆっくりと振り返った真那は、ぼんやりとした視線を昂天の頭上に彷徨わせた。
「昂天様より大きくていらっしゃいますか」
「ああ。父上よりも高いから…そうだ、そこの窓枠ほどまであるぞ」
ちょうど真那が立っている窓際に視線をやると、それを追って真那の視線も移動する。じっと窓枠を見上げたあと、そっと唇が開いた。
「………大きな方ですね」
「ああ。大きな方だが、それに見合ったおおらかさと健やかさをお持ちの方だ」
「そうですか…逢ってみたいな」
「逢いたいのか?」
「はい。………お逢いしたいです」
至極小さな声で呟き、真那はそれでは、と唐突に去っていった。
丁寧にお辞儀をして、夜分遅くに申し訳ありませんでした、と言って回廊の向こうへ消えていった背を見送りながら、昂天は見知りもしない人間と話しているようだった感覚に短くため息をついた。
去って行った細い背中に、もう幼い頃の面影はなくなっていた。
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