君がため 20
時折思い出したようににゃあと鳴く子猫を膝の上に乗せて、穂摘は呆然としていた。
あたりは暗く、障子の向こうにぼんやりと光る月以外の明かりはない。
どうしてこうなったのか考えれば考えるほど、恐怖が胸をついて仕方なかった。
廃屋を破壊しながら月を背に現れた影は、重吉だった。穂積が墓場で逃げ出してからずっと探し回っていたと告げた彼は、有無を言わさずに腕を掴み、柏木家まで引きずり込むとあっという間に穂摘を部屋の柱にくくりつけて出て行ってしまった。おかげで、志郎からもらった瓢箪をあの廃屋に置いてきてしまっている。
これからどうなるのかわかりようもないが、少なくとも良い方向に事が転ぶ予感はしない。逃げ出さなければと身をよじるが、きつく縛られた腕が軋んで痛むだけで、解けはしなかった。
ごそりごそりと身じろぐたびに、胸元に入れた巾着がちゃりちゃりと音を立てる。些細な音ではあるが、聞きつけた重吉が戻って来やしないかと穂摘はひやひやしていた。
重吉は、穂摘を一体どうするつもりなのか。
許婚という間柄ではあったが、彼は穂摘を厭っていた。穂摘自身は重吉をどうとも思っていないが、お前なんぞを嫁にできるかと何度も罵倒された過去がある。
だが再会した重吉は、どういうわけか穂摘追い回し、あまつさえ軟禁までした。昼間に会った時に娶ってやってもいいなどと言っていたが、まさか本気ではないだろうと思っていると、たすたすと板間を踏んでこちらに近付いてくる足音が響いた。
はっとして顔をあげると、すらりと障子が開いた。月明かりを背にして入ってくるのは、まぎれもなく重吉だ。
ぎゅっと身を縮めて男の行動を見ていると、音をたてないようにそっと障子を閉めた重吉は、火を入れた小皿を片手に持ったまま穂摘の膝に乗ったままの猫に手を払って追いやり、目の前に膝をつくとずいと近寄ってきた。
「おう、やっぱり綺麗なもんだ。お前、本当にあの穂摘か?」
ちらちらと揺れる火に照らされる重吉は訝しんでいる様子だったが、それでも瞳の奥に秘められた好色な色は夜陰にも隠しきれていない。ぞわりと鳥肌が立つ思いをしながら穂摘がそれでも顔を背けると、ちっと舌打ちをして重吉は火皿を少し離れた場所に置いた。
「まあなんでもいい。ほら、脚広げろ」
「嫌、です」
経験などないが、穂摘とて十代の少年だ。脚を広げたらなにをされるかなどわかっていたし、今まで秘されていた場所をむざむざと晒す気など毛頭なかった。
後ろ手に柱に縛られている腕の自由はきかないが、縄をかけられていない脚は動かせる。咄嗟に膝を合わせて腿を寄せると、立てた膝頭に重吉の手がかかった。
「悪いようにはしねえよ。大丈夫だ、男も女もそう変わりゃしねえだろ」
「嫌だっ」
「暴れんじゃねえっ」
ばしっと音がして、じんわりと頬が熱を持った。熱はやがてもせずに痛みに変わり、平手で頬を張られたのだと穂摘が気付いたのは、一瞬くらりと揺らいだ視線が定まってからだった。
さすがに暴力を受けたのは初めてで、驚きと恐怖に穂摘が茫然としていると、けたたましく子猫が鳴きだした。抗議するように濁った声でにゃあにゃあと泣き喚き、うるさい黙れと苛立ちを露わにする重吉の背に爪を立てさえした。
「いてっ、てっ、やめっ、この野郎っ」
腕を振り回して子猫を捕まえようとする重吉だが、ひらりひらりと躱されてしまう。それでもどうにか捕まえると、そのまま障子を開けて、外に放り出してしまった。
「なにするんですか!」
ごみでも捨てるような乱雑さで放られたのか、どっという音とみぎゃっという鋭い悲鳴があがり、我に返った穂摘が抗議を唱えたが、重吉は意に介せず、障子を閉めた。
「これで邪魔者もいねえ」
完全に二人になった空間が、ずっしりと重みを増して穂摘に圧し掛かる。恐怖と焦りにぶるりと肩を震わせると、それを宥めるように重吉の手のひらが頬を撫でた。
「女郎なんぞよりいい肌してんじゃねえか」
ざりざりと粗い指先が頬を何度もなぞる。そのたびに悪寒が走るのを感じていやいやと首を振ると、穂摘の態度が軟化する様子が無いことを悟ったのか、今度は軽く頬を叩かれた。
「素直にしてねえと、痛い目見るのはお前だぞ。そら、脚開け」
「嫌だ、やっ、志郎さ…っ」
力任せに左右に割られた膝の間に重吉の腰が割り込み、一気に恐怖が増した穂摘が、咄嗟に志郎を呼んだ瞬間だった。
にゃーあと恨めし気な猫の鳴き声が障子越しに響いて、ぴたりと重吉の動きが止まった。
夜目にもわかるぎらぎらとした双眸で睨むように穂摘を見つめた彼は、ざりっと畳を膝で擦って、なおもにじり寄った。
「なんだお前、綺麗ななりに化けて、どこぞで男誑しこんでやがったのか。いけねえなあ、許婚がいるってのに」
重吉の吐息が頬にあたり、膝を割っていた手のひらが足の間に伸ばされる。ざらりと乾いた感触が内股を撫でるのが嫌で体を竦ませると、さすがに後ろ手に手を縛ったままだと体勢が悪いと思ったのか、脚の間に腰を割り込ませたまま、重吉が伸びあがって穂摘の手首を縛っていた紐をほどいた。
「逃げんじゃねえぞ。逃げたらどうなるか、わかってんだろうな」
解いた紐を背後に投げ捨てながら脅し文句を連ねる重吉だが、そう言われて大人しくしている場合でもない。手首から戒めが解けるなり柱を背にしたままずり下がり、ごろりと横に転がって咄嗟に距離を取った穂摘に、重吉は尚も近寄った。
「逃げんじゃねえって言ってんだろ。悪いこたぁしねえよ、そら、来い」
「嫌です!」
背後はおそらく押し入れで、そこに逃げても道はない。じっとりといやな汗を掻く背をじりじりと横に移動させ、少しでも外へと続く障子に近寄る。
獣同士の間の取り合いのような緊迫した雰囲気の中、穂摘は首から下がった小袋の存在を思い出していた。
別れの間際、志郎が穂摘に託してくれた小さな包みの中には薬効のわからない薬が入っている。そのまま飲ませてもいいと、志郎は言っていた。茶に混ぜてもいいと言っていたが、呑気に茶を欲しいと言える雰囲気ではない。
視線を重吉に向けたままそろりと胸元に手をやり、小袋を紐から引きちぎり、手探りで中の薬を出す。ふと、鼻先を覚えのある匂いが漂った。その瞬間、にゃーおと、先ほどよりもだいぶ大きな猫の鳴き声がした。ざあっと強い風が吹いた音がしたが、今の穂摘には関係のないことだった。
「なにしてんだ、お前。それぁなんだ」
ずいと距離を詰めて、大きな掌が近づいてくる。
こちらから彼の懐に飛び込めば、薬を口に放り込んでやることも出来たかもしれない。けれど、もし失敗したらどうなるかを考えれば、その選択肢はあっという間に掻き消えた。組み敷かれ、秘した体を暴かれるのか。重吉のことだから、穂摘が隠し通してきた秘密を知れば面白おかしく騒ぎ立てるか、これまで以上に気味が悪いと避けるかだ。
志郎が治してくれたこの体を無碍にしたくはなかったが、それ以上に重吉に汚されることがたまらなく嫌だった。
伸びてきた手のひらが一瞬穂摘の手首をかすったが、それを振り払い、自らの口腔に薬を放り込んだ。
「―――…あぐ…ッ」
きんと口蓋を刃で切られたような感覚が走り、喉から食道、鼻腔にかけて痛みすら伴うほどの冷感が抜けた。ぐらりと視界が歪み、喉が焼け付くように痛んだ。麻痺したよう動かない顎のあたりに伝っているのが涎なのか、それとも血でも吐いてしまったのか、穂摘にはわかりようもなかった。
にぎゃあと猫の鳴く声がした。
バンと激しい音が鼓膜をたたき、庭に面した障子が吹き飛んだのは、閉じゆく瞼の隙間から垣間見えた。そしてそこから、爛々と光る火の玉のような粒が浮き上がり、ぞわりと存在感を増して先陣を切るように巨大な蝦蟇が暗闇から飛び出してきた瞬間、穂摘の意識は混濁して墜ちていった。
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