君がため 13
さやさやと耳朶を優しく撫でるせせらぎが眠気を誘って、穂摘はうとうとと頭を揺らした。
全身を覆っていた布もすべて取り払われたのが一昨日。今日は外に出て日向ぼっこをしないかと誘われた穂摘は、志郎に連れられて家の裏手にある川にいた。
久しぶりに浴びる日差しは強かったが、志郎が持たせてくれた傘を持っていれば、そう辛いわけでもない。脚だけを川に浸し、ぼんやりとしていると、すぐ近くでばしゃばしゃと水音がした。
「志郎さん」
「ん?」
「なにしてるんですか?」
「水蘚を採ってる。そろそろ家に戻るか?」
ざばざばと水を掻き分ける音がして、ザッ、バシャとすぐ隣になにかが置かれる。そろりと手を伸ばすと、笊があり、その中にはぬるりとしたものが入っていた。
「まだ、大丈夫です。これ、薬にするんですか?」
「ああ。軟膏の繋ぎにも出来る。擂って薄荷と混ぜたら患部の清涼にも使える」
「はっか?」
「匂いを嗅ぐと鼻や喉がすっと通るようになる草があるだろう。それだ」
「…あ! わかります。あれも薬草なんですか?」
「そうだ。解熱や発汗にも使える。どこにでも生えてて…そら、ここにもある」
素人である穂摘がなにを聞いても、志郎は驚くほどの博識でもって答えてくれる。
ぷちりとなにかを絶つ音がして、鼻先にすうっとする匂いが寄せられた。すっと鼻から喉や脳天に清涼な空気の管を通されたような感覚だ。
「すうってします」
「涼を得るにちょうどいいな。俺が摘むから、ばらばらにしてくれるか。あとで乾かしておくんだ」
「はい」
頷くと、膝に笊が置かれる。ぷち、ぷち、と腿の横辺りで音がして、ぱさぱさと笊の上に重なった。
手探りで葉を掴んで、できるだけ小さく千切っていく。指先がすっと冷えて心地よい。
床上げをしてから、暇を持て余している穂摘の手慰みにと志郎はたまに簡単な作業を頼んでくるようになった。本当にごく簡単な、幼子でも出来るようなものばかりだが、手先の運動にもなるし、ただ飯食らいでいるよりはと少しは気が楽になる。
笊から零さないように用心しながら薄荷の葉を千切っていると、聞き慣れた声が対岸からあがった。
「しろさーん、穂摘ちゃーん」
遠くから呼びかけてくる伸びやかな声は、お梅のものだ。
「お梅さん?」
「ああ。洗濯しに来たんだろう」
志郎が言うと、間を置くことなくお梅の声が近付いた。
「外、出られるようになったんだね」
「はい」
「あらまあ綺麗になって。ちょいと見せておくれよ」
どこかうきうきとした様子でお梅が言い、ばしゃばしゃと浅い川を渡ってやってくると、穂摘のすぐ隣に腰掛けた。
「見せておくれ」
「そんな、綺麗なものじゃないです」
「謙遜しなさんなって。そーら、綺麗なもんだ。さすがはしろさんの薬効だねえ」
するりとお梅が手をとり、二の腕まで指を滑らせてくる。くすぐったさに穂摘が肩を竦めると、彼女はくすくすと笑ってぱちんと肌を軽く叩いた。
「痘痕とか言っていたけど、うん、両手両脚、どこにも見当たんないよ。しろさんの薬で治っちまったんじゃないのかい」
「でも、町のお医者さまでも治せなかったって、おかあが」
「町のお医者さまだって? あはは、そんなたかが知れているじゃないか。しろさんはね――…」
「お梅さん」
闊達なお梅の言葉を途絶えさせたのは、志郎の声だった。いつも穏やかで朴訥としている彼の声は、今は拒絶を含んで硬く強張っている。
きんと強く引き伸ばした弓の弦を思わせるほどぴんと張った空気に穂摘が身体も動かせずにいると、ぱしゃ、と水音があがった。
「ほ、穂摘ちゃん」
「お梅さん?」
どうやら沈黙を破ったのはお梅のようだった。
どこか上擦った声で穂摘を呼び、それから大変大変と騒ぎ出した。
「しろさん、布、布あるかい」
「今持ってくる」
ザバ、バシャと志郎が川からあがる音がして、家の方へと音が消えていく。
どうしたのだろうか、先ほどの緊張感はどこへ行ったのだろうかと穂摘が動けないでいると、不意にお梅の手が腿の辺りに触れた。
「痛くはないかい? どうしたんだろうねえ、血なんて…」
「血?」
「そうだよ。ああ大変、着物が…」
どこも痛くはない。どういうことだと穂摘が慌てだすより先に、あっとお梅が声をあげた。
「あの…あたし、勘違いをね、していたようなんだけど…」
やけに歯切れ悪くお梅は言うと、ちょいとごめんよ、と小さく言った。その途端、まくりあげていた着物の裾が腿ごとぐいと上げられた。
「わあっ」
「ああ、やっぱり…お馬だね。それとも初花…あら? うん…?」
不意にお梅の声に困惑に滲んだ。その理由に思い至った穂摘はざっと背を悪寒が走ったのを感じたが、動けないまま唇を震わせた。
「ちょいと、これ…穂摘、ちゃん…」
見られた。
それだけだ。それしか、穂摘の心には浮かばない。
拒否されるのか、それとも忌避されるのか。どちらにせよ、もうお梅は自分に笑いかけてはくれない、優しくしてくれない。
「もしかして…ふたなりなのかい?」
「……っ」
震える吐息を吸い込んだ穂摘の肩を、不意に大きな手が掴んだ。
「穂摘」
「しろ、さん」
「怪我か?」
「……」
無言で首を振ると、困惑を滲ませたお梅の声が、それでも心配げにせせらぎの音に混じった。
「穂摘ちゃん、どうなんだい」
「…それ、は…」
もし男だったら、もし女だったら。
男でもあるが、女でもある。男でもないが、女でもない。
それならばどちらに属すればいいのか。それはずっと胸の奥で燻りつづけては傷をじんわりと拡げていく惑いだった。
中途半端ならばどちらにもなれずにいた方がいいと思ったこともある。けれども、どちらかになれたらいいと願ってもいた。
それが今、揺らぎに揺らいで戸惑いと恐怖を撒き散らす。
ぎゅっと身を縮めた穂摘を、慣れた志郎の腕が支える。耳に、小さな声が吹き込まれた。
「穂摘、家に入ろう」
「はい…」
声にするのも精一杯に頷くと、ほぼ同時に志郎が穂摘を抱えたまま立ち上がる。足の先からぱたぱたと水滴が落ちていき、あれ、とお梅の驚きを含んだ声が水音に混じった。
「ちょいと、穂摘ちゃん。ねえ、どうなんだい」
「ごめん、なさい…」
問いかけてはいるものの、お梅はきっと、確信している。
出来るならば隠し通したかった。知らないでいて欲しかった。お梅は、涙が出るくらい優しく接していてくれたから。
(ごめんなさい、お梅さん)
もうあの優しい彼女の匂いが近くで香ることはないのだろう。
そう思うと、知らず雫が頬を滑って、穂摘は志郎の着物の袷に顔を擦りつけた。
お梅は、追っては来なかった。
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そろそろ折り返し地点!(のはず!)