君がため 11
ちちち、と鳴く小鳥たちが羽ばたく音にぴくりと反応した弾みに、穂摘は手にしていた小さなお手玉をぽとりと膝に落とした。
志郎に拾われ、手厚い看護を受けはじめて早半月と十日が経っていた。
五日ほど前にどうにか床から起き上がれるようになった穂摘は、相も変わらず志郎の世話になっている。床から起き上がれるようにはなったが、まだ一人で動き回れるほどではなく、布団の上で身体を起こして座っているのがせいぜいだ。治りかけの肌が引き攣れて上手く手の動かない穂摘にと、お梅がお手玉を作ってくれた。これを日がな手の中で玩び、指の運動をしている。
膝の上に落ちたお手玉を持ち上げ、中に入っている小豆の粒をぎこちない動きでこりこりと押していると、がらりと引き戸が引かれる音がした。
「志郎さん?」
「ああ。具合はどうだ、穂摘」
床をあげてからどうにか口の動きが戻った穂摘は、自分の名は『ほうい』ではなく『ほづみ』が正しいのだと志郎に伝えた。そして、志郎のことも『ひよあん』ではなく、『志郎さん』と呼ぶようになった。
声に応えて、志郎が返事する。こくりと顎を引くと、ずし、ずしと足音が近付いた。
未だ布で顔中を覆われた穂摘は、志郎の顔はおろか、姿すらも見たことがない。けれども足音はいつも重みがあり、ゆっくりとしていることから、大柄なひとなんだろうなとあたりをつけていた。
「手、昨日より動くようになったみたいです」
「どれ」
穂摘の脇で足音が止まり、気配が近くなる。
お手玉をのせた手のひらを上に向けて浮かせたままでいると、お手玉が取り上げられ、代わりに大きな手が穂摘の手をとった。ひいやりとした、体温の低い大きな手だ。
「曲げるぞ」
「はい」
一言おいて、大きいけれども繊細な動きをする志郎の手が布に包まれた穂摘の指を一本一本をさする。低い体温がじんわりと布越しに滲みるようで、その感触にほっと安堵する自分がいることを、穂摘は知っていた。
志郎のことは、薬師であることと、妻子はいないことくらいしかわからない。それ以外は年齢もわからず、親兄弟がいるかどうかも聞いたことがない。
それでも、実際頼れるのは志郎しかいないというのもあるが、もう一月近くも甲斐甲斐しく世話をしてくれる志郎を穂摘は誰よりも頼っていた。
両手とも丁寧にさすって指の動きを確認した志郎は、片手で穂摘の手を取ったまま、ごそりと動いた。
「あけびは好きか」
「好きです」
家が貧しく、茶屋などで菓子など買えたこともない穂摘は、時折山に入って食用の野草などを採ることもあった。その際に野生に生っている果実を食べられるのが楽しみだった。
甘い実の味を思い出しながら軽く顎を引いて応えた穂摘の布に巻かれた手に、手のひらよりも少し大きいくらいの果皮が触れた。同時に、触れていた志郎の手が離れる。
「蔓を取るついでに、生ってたから採ってきたんだ」
薬師である志郎は、時折家を出て山に登っていると、穂摘は聞いていた。家の裏手にも薬草を植えた畑があるらしいが、山で自生するものを採りに行くことが今までにも何度かあり、そのたび彼は果実や魚を手土産にしてくれていた。
「もう割れてる…」
そっと指でなぞった張りのある果皮は熟成に耐えきれず、ぱくりと口を開いていた。瑞々しい割れ口を指ですっとなぞると、布に果汁が少し滲みる。
あ、と声をあげるより先にあけびが取られた。
「皮は苦いから、夕餉にしよう。中身だけ食べるといい」
「うん」
頷くとあけびを失った手のうえに、半分ほどになったものが戻ってくる。志郎が割いたのだ。
今度は果汁に触れないよう果皮の部分だけを持って、確か淡い白をしていたと記憶している果肉の部分をそっと食む。ほどよい甘みと過ぎない水気が舌に乗るのが心地よい。
もう何度も食べたことのある実なので、たとえ視界をふさがれていても果肉の部分と種子の部分を分けて食べることが出来る。器用に種子だけを除けて四口ほどで食べてしまうと、穂摘はふうと息を吐いた。隣からは、しゃくしゃくと志郎が咀嚼する音がする。
「美味かったか」
やがてもせずに志郎も食べ終えたのか、穂摘の手の上にのったままだった果皮だけのあけびは取り上げられ、微かに残る甘い匂いだけが鼻腔を掠める。
「はい。ありがとうございました」
問いかけにこくりと頷いて礼を述べると、そうか、とだけ応えて、志郎の気配が少し遠くなった。土間のあたりだろうか、ざかざかと乾いた音がする。聴覚だけを頼りに顔を向けた穂摘は、ふと思い出して目の辺りに触れた。
「志郎さん」
「ん」
「俺の目、良くなってますか?」
身体は大分状態がいい。焼け爛れて二度と元には戻らないと穂摘は思っていたが、肌は大分戻っている。どんなにか上等な薬なのか、引き攣れも指先などには少し残るが、それも時間の問題だろう。もう数日もすれば布も取れそうであるし、後は相変らずぐるぐる巻きにされている顔だけだ。
信頼してはいるが、拭えない不安が声に滲んでしまったことを自覚しながら穂摘が問うと、がさ、とまた乾いた音がする。おそらく、背に負ぶったりする籠の音なのだろう。
「良くなっている」
「見えなくなったり、しないですか」
「…大丈夫だ」
少し間を置いた後、ひんやりとした感触が目許を覆った。大きなそれは、もう何度も触れている志郎の手のひらだ。
「大丈夫だ、俺の薬は、お前の目を治す。そうしたら、里に戻れる」
「里…」
元のように目が見えるようになると、志郎の口から言われると確証の様で嬉しい。けれど、続いた言葉がその喜びから熱をそろりと奪った。
物心ついたころから里で暮らした穂摘だが、戻ったところで家はない。父母も亡い。親族もなく、頼れるものといえば、重蔵親子だけだ。しかし、それすらも今ではと思う。
(重吉さんは、俺を嫌っている。死んだと…喜ぶほど)
重吉を好きだったかと言われれば、首を横に振ることの出来る穂摘だが、もとより穂摘に決定権はなかった。
母である浅乃の薬代を肩代わりしてもらう代わりにと、穂摘は重蔵の家で働き、重吉の許婚になることを諾していたのだ。けれど浅乃は火事で鬼籍の人となった。最早里に戻り、重蔵の言うがままに従う理由はない。
里に戻る理由も、里に戻りたいという願いもない。
(戻りたくない…)
村に友がいるわけでもない。親しい人間もいない。帰って、なんになるのだろう。
「穂摘。夕餉まで少し休め」
ぼんやりと考えだした穂摘を、志郎の腕がそっと抱えて寝床に横たえる。低い体温に包まれて布団に寝転びながら、薄く薄く、穂摘は布の下で瞼を開けてみた。
細い隙間からうっすらと見えた緩い光を遮る、大きな影。
(志郎さん)
ここにいては駄目だろうか。
問いかけるほどの勇気も、決心も、穂摘にはない。
(戻りたくないよ)
ぽつりと胸の奥に落ちた願いは、けれども言葉になるでもなく、澱のように心の底に落ちていく。掻き消えてしまえばいいのに、それはとろりとした眠気に浸り始めた穂摘の胸を、いつまでも蝕んでいた。
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今度は長い…思った以上に志郎が穂摘にべたべたして…る…?